「笹森さん、いこっ!」


授業が終わると、すぐに私の手を取って走り出そうとする。
思えば、その子の名前も知らなかった。


「待って、……えっと、」


「楓。前園楓(まえぞの かえで)。」


「前園さん、ちょっと待ってて。」


「なにか用事があるの?じゃあ、正面玄関のところで待ってるからね!」


「うん!」


私は、数学科準備室まで走った。
彼女を待たせる時間を、少しでも短くしたかったから。


「天野先生!」


ノックもせずに飛び込むと、先生は驚いたように、回転椅子ごと向き直った。


「どうしたの、笹森さん。そんなに息を切らせて。」


「先生、今日は用事が出来てしまったので、帰ります!」


「用事ですか。仕方がないですね。……何の用事?」


先生は、眉を下げて尋ねた。
お預けを命じられたイヌみたいで、なんだか可愛い。


「クラスの女の子に誘われて、一緒にお茶するんです。」


「そうですか。それはよかったですね。楽しんできてくださいね。」


顔中に笑みを広げる先生に、私は申し訳ないような気持ちになる。
実は、誘われた時思ったんだ。


よかった、って。


先生とどんな顔で接したらいいか、いまだに分からなかったから。


「じゃあ、さようなら!」


「ええ。さようなら。」


先生は、椅子に座ったまま軽く手を振る。
今になって、なんだか名残惜しくなる。



「あ、笹森さん。」


「はい?」


「私もやっと、メールというものができるようになりました。」


「メール、ですか。」


「メール、です。」


先生がたどたどしく発するそのカタカナ語が、あまりにも可愛らしい。


「私のアドレス、教えてほしいですか?」


変なところでもったいぶって、先生はじっと私を見つめた。
その眼差しを見返しながら、しばらくして吹き出してしまう。


「教えてほしいです。」


「どうしても、ですか?」


先生は、もう一度尋ねる。
早く行こうとしているのに、先生のせいで足止めを食らってしまう。


「どうしても、です。」


「仕方がないですね。」


そう言って、先生は一枚のメモ用紙を渡してくれる。


「じゃあ、さようなら。」


「さよなら。」



準備室を出た後、その紙を開いてちらっと見た。
可愛らしくて、にやけてしまう。


yoo.amano_nyannyan@~


陽、天野、にゃんにゃん。

本当に、ネコ好きなんだな。


先生が、たまを抱えている図を思い浮かべたらまた笑いが込み上げてきて、私はくすくす笑いながら階段を駆け下りた。