「失礼、します。」
放課後の数学科準備室。
本当に久しぶりに、その中に足を踏み入れる。
なにかとてつもなく悪いことをしているようで、恐ろしいような気持ちになるけれど。
私ね、先生。
普通の女の子がよかったよ。
どうしたら先生に好きになってもらえるか、そんなことを考えながら。
スカートを短くしたり、先生に話しかけたり。
そんな、ふつうの女の子が良かった。
先生に軽くあしらわれて、それでもめげずに笑っていられるような。
そんな女の子になりたかった。
先生の同情は好きだけど、同情で優しくされるなんてつらすぎるから。
「いらっしゃい。」
朝まで一緒にいたのに、久しぶりに先生に会ったような気がした。
「先生。」
微笑みを浮かべる先生は、いつもと何も変わらない。
だけど、その微笑みが、日増しに切ないものになってゆく。
それが、何を意味しているのか、私には分からない。
「笹森さん、進路、決めていますか?」
「進路、ですか。」
そんなこと、考えたことがあるはずない。
好きなことなんてない。
そもそも、進学するお金もなくて。
私は、一生。
あの家から逃れることはできない。
できないんだ――
「来月は、センター試験ですね。」
「……はい。」
「受けるんですか?」
「いいえ。」
ずっと前に申し込みの用紙をもらったけれど、私は何も書かずに捨てた。
将来のこと、考えるだけでつらいから。
みんなには普通に存在する未来が、私にはないと思うだけで。
「じゃあ、就職、ですか?」
「それは……。」
それは、そうなんだと思う。
だけど、私の就職は、就職活動をするような真っ当なものじゃない。
言われているんだ、母に。
高校を卒業したら、自分の勤めている店に頼んで、私も働かせるって。
綺麗な服を着て、男の人に媚びることで、お金を稼ぐ世界に―――
「笹森さんは、どうしたいの。」
「私は……」
望みなんて抱いたって、悲しくなるだけで。
いつだって、心にふたをしてきた。
だから、分からないよ。
そんなこと、分からないよ。
「私がこんなことを言ったら、あなたは怒るかもしれない。でも……」
先生は、目を伏せたまま控えめな口調で言った。
「あなたは、家を出なくてはなりませんよ。」
「え。」
「あなたは、親御さんの元を離れる決心をしなければ、幸せを手にすることはできない。」
分かった。
先生と、今までどうして何度もすれ違ってしまったのか。
先生が言っていることは、いつも正しくて。
だけど――
「でも、先生。」
先生が言ったように、私は怒ったわけじゃない。
ただ、悲しくて。
悲しみの青白い火が、ちろちろと燃えていた。
「私、」
涙がこぼれ落ちる。
涙って、どうしてなくならないんだろう。
何度泣いても、また泣きたくなるよ。
「お母さんのこと、愛しているから……」
甘いってわかってる。
自分の言っていることが、どれほど稚拙で、ばかばかしいか。
だけど、この気持ちは嘘じゃない。
どんな母親でも、私にとってはたった一人の、血のつながった親類で。
「だけどね、笹森さん。このままだと、」
「いいの。私は壊れてもいいの。私のせいなんだもん。私が生まれてきたから……」
私の言っていることなんて、先生はきっと、理解できないだろう。
理解してほしいなんて、思わない。
こんなに矛盾していて、それでいて頑固で。
それでも、心がねじれるくらい、先生のことを好きな私の気持ちなんて――
「先生、ごめんなさい。今日は帰ります。」
泣き顔を見られたくなくて、先生に背を向けた。
「笹森さん。」
どうして、先生。
いつも追いかけてこないじゃない。
それなのに、どうして今日は。
私の手首を、捕まえているの?――