先生との幸せな時間はあっという間に過ぎた。

熱が下がった私は、学校に行かなくてはならない。


「送りますよ。」


「え、でも。」


「大丈夫です。さあ、早く。」


先生に連れられて、足早に玄関から出る。
こんなところ見られたら、大変なことになると分かっていた。

先生と私の間には、何もない。

何もないのに、人はみんな誤解するだろう。

誤解されて当たり前のようなことを、先生と私はしているのだから。


私はいい。

どうせ、未来なんてないんだから。


だけど、先生は――


どういう事情があるか分からないけれど、離れて暮らしている奥さんや子ども。
それらすべてを失ってしまう可能性もあって。


誰かを愛するために生まれてきた、と言った先生が。



「先生。」


車が発進した瞬間、私は口を開いた。
そうでないと、もう言えなくなってしまいそうで。


「なんですか?」


「やめませんか?」


突然、口を噤んだ先生。
車の中を、急に重苦しい沈黙が支配する。


「どうして。」


「私、怖いんです。……家にいるより、ここにいる方がずっと。」


運転をする先生の輪郭が、暗い影に包まれた。

ああ、先生そんな顔をしないで。
大好きな笑顔を、私のせいで失くさないで。


「先生のすべてを、奪ってしまいそうで怖いんです。その方がずっと怖いし……痛い。」


「だって、笹森さん……」


「お願い、先生。私、今日は家に帰ります。」


いいの。
私はいいの。
私は、先生が幸せなら、それでいいの。


「この二日間は、夢だったことにします。長くて幸せな夢だったことに。」


「笹森さん、私は、君を……」


「その代り、もう助けを求めたりしないから。先生を困らせるようなこと、しないから。」


先生は悲しそうな顔で、もうそれ以上何も言わなかった。
私は泣きそうになって、震える唇を強く噛みしめる。


本当は、先生についていきたい。
先生のそばにいたい。
優しい声に包まれたい。
その腕に包まれて、思いっきり泣きたい。
先生と、笑いたい。


だけど、そんなのただの夢でしかなくて。
叶わない、叶っちゃいけない夢なんだって、分かってるから。



「笹森さん、」



先生は、遠慮がちな声で言った。



「補習には来てください。それは……約束です。」


「でも、必要ないって。」


「必要です。だから、来て。」


「……はい。」


そんなふうに言われたら、頷くしかなかった。
だけど、本当は補習なんて行きたくない。

先生を断ち切るには、会わないのが一番だから。

会わなくても苦しいのに、毎日ふたりで会うのだとしたら。

その苦しみは計り知れない。



「それから――」


先生は、ポケットからなにかを取り出して、私の前に差し出した。


「これ、お守りにしてください。」


「これ――」


先生が私の手のひらに載せたもの、それは小さな指輪だった。
中指には嵌らない。
これは、小指に嵌めるもの?


「ピンキーリングです。左手の小指に嵌めてください。」


「え?」


「左手に嵌めたら、幸せが訪れるそうです。笹森さんに、と思って。」


「幸せが……。」


先生は、ハザードランプを点けて、車を路肩に寄せて停めた。


「貸してごらん。」


冷えた左手を先生が優しく開いて、小指に指輪を滑らせる。


先生は、ずるい。

こんなふうにされて、嫌いになれるわけない。
考えないでいられるわけ、ないよ。

ピンキーリングだから、深い意味はないって。
そう自分に言い聞かせても。

それをお守りにしなさいと言う先生の、真意が分からない。


どうしたらいいか、分からない。



私が固まっているうちに、車はまた発進した。
学校はもう、すぐそこだ。

私は、ピンキーリングを隠すように、セーターの袖を伸ばした。

校則違反になってしまうから。



「笹森さん。」


呼ばれても、返事もできない。
目を合わせることなんて、出来るはずなくて。


「あなたのそばにいなくても、私はいつも、」


そこで言葉を切った先生が、目を合わせない私の肩をそっと掴んで、少し強引に正面を向かせた。
驚いて、先生の顔をまじまじと見つめてしまう。


「私は、笹森さんを見守っています。」


はっと息を呑む私を、先生は至近距離で見つめていた。
運転席から身を乗り出した先生と、驚くほど近い距離で。


素直に頷けたら、どんなに幸せだっただろう。
先生の言葉を、そのまま受け止められたら。



先生として語るには、あまりにも重く。
告白と受け取ることなど、できるはずもなく。



そんな言葉を、行き場のない思いとともに胸に沈めて。



私は、ドアを開けて、再び先生に背を向けたんだ――