それから午前中の間、ずっと本を読んでいた。
雨は強くなるばかりで、制服のブレザーを着ていても肌寒い。
動かないでじっと本を読んでいた私は、体中が冷えていくのを感じた。

寒いなあ、と思わず身震いする。
教室なら人がたくさんいるから、たぶん温かい。

小説の主人公は、高校の生物教師に恋をしていた。
しかし二人はすれ違い、様々な障害があってなかなか前には進めない。
だからこそ、束の間のひとときがあまりにも幸せで、それでいて悲しい。


「寒いなあ……。」


思わず口に出してつぶやいた。
もちろん、誰も聞いていないけれど。


「寒いですね、今日は。」


「え?」


思いがけず返ってきた言葉に、私は心の底から驚き、そしてたじろいだ。

しかしその人は、私のひとつ隣の席にあっさり座ってしまう。

制服ではないから、先生なのだということは分かる。
でも、私はその先生を見たことがないように思った。


しばらくそのまま、空白の時間が流れる。
先生は、どうやら寡黙な人のようだった。


「どんな話ですか?」

「え?」

先生は、それ、というように私の読んでいる本を指す。

「えと……禁断の、恋。です。」

「禁断の。」

「はい。」

「恋。」

「そうです。」

一言ずつ確かめるように繰り返して、先生は深くうなずいた。

「王道ですね。」

「ですね。」

先生の感想が余りに単純で、私は笑ってしまう。
笑ってから気付いた。
私が笑ったの、何年振りだろう――


「禁断の恋というのは―――」

「まだその話ですか?」

くくく、と笑いだすと止まらない。
留め金が外れたみたいに、私はひとしきり笑いの虫にとりつかれてしまった。

しかし、先生は至って真面目な顔で言う。

「禁断の恋とは、教師と生徒?」

「ええ。そうです。」

「それ、何がいけないんだろうと思ったことないですか?」

「へ?」

先生の言っていることが意味が分からなくて、私はまた笑いそうになる。

「愛するということは、立場や年齢を越えていいはず。ならどうして、教師と生徒は恋愛をしてはいけないのですか?」

本当に分からない、と言った顔で先生は首を傾げる。
先生は、冗談で言っているのではないとようやく私にも分かった。
先生は何か、本当の答えを求めているんだ。

「それは……社会的な立場とか、保護者からの信頼とか、色々あるんじゃないですか?」

「まあ、そうでしょうね。」

先生は急に、弱気に眉をひそめる。

その顔に、私は思わずドキッとしてしまう。
それはまるで、先生も禁断の恋をしているかと思うような、愁いのある表情だった。

しかし、先生の左手の薬指にはめられた指輪で、そんなことはないのだと気付く。

「先生、結婚してるんですね。」

先生は、何も言わずにうなずく。
その目は、心なしか遠くを向いているような気がした。

「笹森さん。」

「はい。」

私は先生のことを知らないはずなのに、先生は私の名前まで覚えていて驚く。

「結婚、したいですか?」

「はい?」

「したい?……結婚。」

困った顔で首を傾げる。
そんなこと、考えたこともなかった。

私は幸せになることなんてできないから。
未来を描くことさえ、私は放棄したんだから。

「結婚は……人生の墓場ですよ。」

「え?墓場……、ですか。」

「そう、墓場です。」

それから、先生は何も言わなかった。
私は本に目を戻して、数行読んだ。
でも、先生が隣にいるとちっとも内容が頭に入ってこない。

「あ、先生。」

「はい?」

「先生のお名前は?」

「私の名前は、天野(あまの)ですよ。」

「天野先生。」

「はい。」

先生は、にっこり笑って立ち上がった。

「では、授業があるので失礼します。」

「はい。」

その後ろ姿を見送りながら思った。
先生は、一度も私に、教室に行けと言わなかった。

願わくば誰とも話したくない、そう思っていた私。
それなのに、先生は、自然に私の心の扉を開いてしまった。
封印していたはずの笑顔まで、いつの間にか零れ落ちていて。

私はとても不思議な気持ちで、本から目を離したまま、しばらく外を見ていた。
相変わらずのどしゃ降り。
でも、さっきまでの冷たさは、いつの間にか消え去っていた。