先生とまた楠の木のところで待ち合わせた。
一緒に歩いて、職員用の駐車場を目指す。

先生が鍵を出して操作し、駐車場に何台か残っていた車の中の一台が反応する。
街灯に照らされていたのは、深いブルーの乗用車だった。

きっと、この車には幸せな思い出がたくさん詰まっているんだろうな。

考えなくてもいいようなことが、次から次へと頭に浮かぶ。
同時にこの間の写真をくっきりと思い出してしまう。
割ってしまった写真立てのことも。

先生はまだ、気付いていないのだろうか。


「笹森さん、どうぞ。」


先生が開けたのは、助手席のドアだった。


「え、でも……。」


――そこは先生の指定席でしょう?

そう尋ねる勇気がなくて、私は立ちすくむ。


「どうしたの。」


不思議そうな顔で見つめられたら、ここに乗るしかないんだろう。


「お、ねがいします。」


「いいえ。」


私が乗ったのを確認して、先生はバタン、とドアを閉めた。
思わず、見回してしまう。

何の変哲もない車内だった。
特に先生の生活を思わせるようなものはない。

ただ、ひとつだけ。

フローラルな香りの芳香剤が、私の胸を締め付ける。
先生が選ぶはずないよね、こんな女性的な香り。


「どうしました?」


固まっている私に微笑みかけながら、先生は音楽を流し始めた。
どこかで微かに耳にしたことのあるような、外国の音楽だった。


「緊張しているんですか?」


いたずらっぽい目で、私を見る。


「ちょっと。」


「何で緊張するの。」


ブレーキを離して、緩やかに車が発進する。
スーツで車を運転する男の人が、こんなにかっこよく見えるなんて知らなかった。
幼い頃に父を亡くして、それ以来男の人が運転する車になんて、乗ったことがなかったから。


「寒くないですか?」


「大丈夫です。」


ちょうどいいくらいの温度に、心地よい音楽。
そして、隣の先生の温もり。
こんなに居心地の良い場所を、私は他に知らなかった。


歩いても20分くらいの道のりだ。
車ならあっという間かと思いきや、思いのほか道が混雑していた。


「混んでますね。」


思い切って話しかける。


「そうですね。この通りは、この時間いつも混むんです。」


「先生の家、ここから反対方向なんですよね。」


「そうですよ。そんなに遠くないけれど。」


「先生の家って……、」


「もうすぐ公園です。」


言葉をかぶせられて、私ははっとする。
先生に、質問を遮られたような気がしたのだ。

家のこと、私に話したくないんだ――

そりゃ、誰だって秘密はあるよね。
私だって、絶対に先生にだけは、家の中のこと知られたくない。



ぐるぐると考えているうちに、車が公園の駐車場に滑り込んだ。

なんだか、後味が悪い。
せっかくこんなに素敵な時間を過ごした後だと言うのに。


「笹森さん、じゃあまた月曜日、」


「嫌です、先生。」


「え?」


先生が不思議そうな顔をする。
私は、のど元までせり上がってきた涙を必死にこらえていた。


「嫌だ。帰りたくない。」


「笹森さん。」


本当は、先生のこんなに困った顔、見たくない。
せっかく優しくしてくれている先生を、こんなふうに困らせてはいけない。
でも、どうしても耐えられなくて。


「お母さんとけんかでもしたんでしょう。」


首を振っているのに、先生は微笑んだままだ。


「そうなんでしょう?それで私のところなんかに来たんでしょう?」


やっぱり、先生は分かったふりして、何にも分かってないよ。
この苦しみを、分かってくれたわけじゃなかったんだ。
他の普通の高校生と同じようにしか、私のこと考えてないんだ――


「もういいです、先生。」


私は、自らドアを開けて車の外へ出た。
この居心地の良い空間を、自分から投げ出して。


「笹森さん、ちょっと待ってください。」


先生の焦ったような声を背に聞きながら、私は走った。
走りながら、涙があとからあとから流れた。
振り返って、そこに先生がいないことを確認して、また涙が溢れだす。

ほっとした反面、本当は追いかけてほしかったんだ、卑怯な私は。


現実を、見た気がした。


私が想っている1000分の1も、先生は私のこと想ってないんだ。
やっぱり先生には、奥さんも子どももいて。
それ以上に大切なものなんて、この世に存在しないんだ。

私が苦しんでいるからって、どんなに不幸だからって。
先生が私のこと、助けてくれるはずがないんだ――


泣きながら玄関のドアを開けて、そこに立っていた影に足がすくんで動けなくなる。


「こんな遅く帰ってくる不良娘なんか、何で飼ってんの?」


「唯、こんな遅くまで何してたんだよっ!言ってみろ!」


母に襟元を掴まれて、息ができなくなる。


「おい、言えよ不良娘。」


楽しんでいるかのような口調で大路さんが言う。


「……いたの。」


「は?聞こえないんだけど。」


「好きな人と一緒にいたの!!」


叫んだら、また涙があふれた。

こんなに先生のこと、ひどいと思っても。
それでも私、こんなに先生のこと、好き。
私のことを好きになってくれない先生でも、理解してくれない先生でも、好き。

好きな人、という呼び方で先生を呼んだ時、自分でも気付かなかったくらいの、この胸いっぱいの好きという気持ちがあふれだして。

同時に、先生にあんなふうに背を向けてしまった後悔が、津波のように押し寄せてきた。


「何が好きな人だよ!」


ここぞとばかりに私を殴る母。

大路さんが来たことで、母の行為が収まるなんて思っていた私は、なんて甘かったんだろう。
大路さんが私のことを嫌いだから、母は大路さんの前で今までよりもっと激しく、私に当たり散らして。
それを笑いながら見ている大路さんが、そこにいた。

一番かわいそうなのは、私じゃない。
こんなふうにしか夫に愛情を示せない母だ。
そして自分のこと後で責めること、私は知っているんだから。


でも、先生という支えを自分から放り出した今。


私はまた、一人になってしまった――