帰ると、珍しくまだ母が家にいるようだった。
居間に電気が点いている。

そのまま二階に上がろうとした時だった。


「唯。」


「なに、お母さん。」


「ちょっと来な。」


母に呼ばれて居間に行くと、綺麗な水色のドレスを渡された。


「なに、これ。」


「着てみなよ。」


恐る恐る着てみる。

肩にかかるものは何もなくて、胸も大きく開いている。


「こんなっ、」


「似合うじゃん。」


はっとして母を見つめると、母は憂いのある表情で笑っていた。

でも、褒められたのがあまりにも久しぶりで、私は素直に嬉しかった。


「ここ、座りな。」


そう言って母がどいた鏡台の前に、座ってみる。

母は、引き出しからいろんな化粧道具を出して、私にお化粧を施し始めた。


「なんで?」


「行くのよ。」


「どこに?」


「決まってるじゃない。」


次第に私の化粧も、派手になっていく。
私じゃないみたいに、どんどん変わっていく。


母に聞くまでもない。
私も分かっていたんだ。


いつか、この日が来ると。

母と同じ世界に足を踏み入れる日が。

そうしないと、私たちは生きていけなくて。


ただ、まだ心の準備ができていなかったから、少しびっくりしただけ。


母が立ち上がると、鏡の中には私ではない別の誰かがいた。

それでいいんだ。


別の誰かになって、そうして。


すべてを忘れてしまえば楽になるんだ。




いつも見送っていた母に続いて、真っ暗になった街に出て行くとき。


私は一瞬だけ、先生と見上げた真っ暗な雨の空を思い出していた―――――