「読ませて頂きましたよ」

 駅の待合室で小洒落た初老の男が、後からやって来た学生に声を掛けた。

「先生、どうでしたか? 感想を聞かせて貰えれば助かります」

 学生は隣に座る。

「何と言いますか、カッコ書きで、読み仮名がありましたね」

 学生は渋い顔になった。

「すみません。テキスト入力をしていまして、ルビを振る事が出来なかったものでして……。どこかの文学賞に応募する時には必ず消していたのですが、手違いでそのままの原稿をお渡ししてしまいました」

「普段なら消していたのですか? いえ、ね。大変読みやすかったのですよ」

「ありがとうございます」

「発音は音声。漢字はビジュアル。そして、漢字自体に意味があります。読ませたいようにルビを振る……これは、昔からの表現の技法ですよ」

「そういえば小学生の頃、宿題が本読みばかりの年老いた先生がいました。声に出して読みなさい、と」

「それは良いことです。黙読は表現を殺してしまいます。昔は新聞ですら、発音したものです。しかし、今は黙読ありきの作品が主流になっていますね」

「確かにそうかもしれません」

「どんな漢字博士でも詰まる時は詰まります。だから難しい漢字が読む事が出来ても、途切れてしまう。文章というものは、流れが大切なのです」

「はい」

「漢字は造語に起因します。造語は夏目漱石の得意分野というのはご存知ですか? ある意味、現代の顔文字に通じるかもしれません」

「面白いですね」

「例えば、和という字……平和の和ですが、稲穂を持って、笑っている姿なのですよ」

「和むとも読みますね」

「争いがない。そして豊穣。その当時の民が思う和の象徴なのです」

 いつの間にか、待合室の誰もが聞き入っている。

「戦後、漢字を無くそうとした動きがありました。しかしいきなりはうまく行きませんから、当用漢字というものを作りました。当分用いる漢字です」

「GHQですね」

「しかし、今はそれが常用漢字になっています。GHQが漢字の深さを理解した結果かどうかは、不明なのです」

「興味深いお話でした」

 学生が頭を下げた。

 その日、待合室にいた全員が、授業を一本受けた満足感に浸った事は、言うまでもない。