「千紗ちゃん!」

 俺が和室の扉を開けると、千紗ちゃんは上履きを脱いで畳の上に立っていた。

「コータくん」

 桜色の唇が俺の名前を呼んで、首を傾げる。

「どうしたの?」

 心臓だけでなく呼吸も早くなって、きっと今の俺は変質者だ。
 それでも俺を警戒しないで見つめてくる眼鏡越しの眼差しが、ますます俺を変質者にしていく。
 理性のタガが外れそうだった。
 理性のタガのタガって何だとか、そんなことを考える余裕もない。

「コータくん、靴っ」

 上履きを脱ぐ間ももどかしくて、そのまま畳みの上に上がり込む。

「千紗ちゃん、俺……」

 さすがの千紗ちゃんも俺の勢いひるんだみたいで、後ずさる。
 後ずさられるのも計算のうちだ。
 むしろ、後ずさってもらわないと困る。

「俺……」

 狙うは部屋の隅。
 壁と壁に挟まれたその隅へと千紗ちゃんを追い込んでいく。

「コータくん……」

 目をまん丸くして、千紗ちゃんが俺を見返す。
 彼女の背中が、壁にぶつかった。

「好きだ」

 ドンっ、と音を立てて壁に手をつく。

 両手を壁につくと、壁と俺との間に千紗ちゃんがおさまってしまう。
 彼女の額が俺の口元にきて、思わずキスをしてしまいたくなる。
 でも、そこはグッと我慢だ。
 ここで終わっては、特訓の意味がない。

 俺は教わった壁ドンを実行すべく、両手をつけたまま片足もを壁につけた。
 そして、勢いをつけて反対側の足も。その体勢をキープして――

「俺と、付き合ってくれえぇー!!」

 俺が告白した瞬間、千紗ちゃんは目の前で爆発した。

「ち、千紗ちゃん……?」

 いや、違う。
 爆発したかと思うような大きな声で、彼女は大爆笑し始めていた。
 立っていられないほどの笑いに彼女は膝から崩れ落ち、お腹を抱えて転がる。

 俺の方も彼女の声に驚いて壁から落ちて尻もちをついていた。

 千紗ちゃんって、引き笑いなんだ。
 と、彼女の新たな一面を発見した喜びを噛み締めつつも、俺は事態が呑みこめないでいた。

 笑いの合間に「まさか」とか「蝉ドン」とか「凄い身体能力」とか、彼女がつぶやく単語が聞こえてくる。

「まさか、本当に蝉ドンする人がいるなんて……いいもの見せてもらったわぁ」

 笑いすぎて彼女は涙をぬぐう。
 口元はゆるみきっていて、眼鏡を外した素顔に胸がきゅんとする。
 けれど、俺は自分が耳まで真っ赤になっているのを感じていた。

 あいつら……騙しやがったな。
 なんだよ、蝉ドンって!!

 壁ドンと違って間抜けな響きしかない蝉ドンに、俺はやらかしてしまっていたことを察していた。

「ごめん、千紗ちゃん!」

 後はもう、失態をただただ詫びるしかない。