『瀬奈ちゃんなら今日はいないよ。』
そう言った瞬間、快は凍りついたように顔を強張らせた。ほんの一瞬だったが、確かに強張らせていた。なぜ自分じゃなく爽がそれを知っているのか、憤りにも似た表情だった。
「風呂……入る」
ココアを飲み終え、快がフラフラと立ち上がる。
「爽」
快がバスルームに入ったのを確認し、紗織が口を開く。爽は唇を結んだまま、すぐには返事をしなかった。
「……知らなかったみたい」
「えっ?」
「瀬奈ちゃんの事」
そう言いながら、爽はリビングのソファにドカリと腰を下ろした。
「今日、瀬奈ちゃんが友達ん家に泊まりに行ってる事を、快は知らなかったんだよ」
「え……」
爽の説明に紗織が息を呑んでいる。それは二人にとって、とても受け入れ難い"現実"だった。
「まさか瀬奈ちゃん……」
先を続けようとした紗織が口をつぐむ。沈黙の中、耕助が階段を降り、リビングにやって来た。
「爽」
「あ、快なら今、風呂だよ。瀬奈ちゃん家の前で座り込んでた」
「そうか……。ありがとな」
夫婦そろって快を迎えると、いかにも"待ってました、心配してました"という印象を与えそうで遠慮していた耕助は、爽からの報告に、哀しそうな顔をした。
「無事でよかった」
「うん」
「お父さん」紗織が耕助を呼んだ。
「今、爽が言ってたんだけど、快、瀬奈ちゃんから何も聞いてないみたいなの」
「え……?」紗織の言葉に耕助が驚く。三人にはやはり、その現実は信じられなかった。
「もしかして……ずっと連絡してなかったのかしら……」誰もが思っている事を、紗織が代表して呟く。
「判んないけど……そうかも……」
爽のその言葉を最後に皆、押し黙った。
『別れた痛みの方がきっと、今より辛いと思うから……』
爽の胸に蘇る、あの日の瀬奈の言葉。城ヶ崎家に戻ってからもほぼ毎日、瀬奈から連絡を受けていた紗織が、同じ女性として彼女の心中を察した様子で、切なそうに瞳を閉じた。
三人はそのまま言葉を交わす事なく、重い時間だけが流れた。
「暗いとこってどう?」
街頭や店の明かりが多い夜道を菖蒲の家へ向かいながら、不意に瀬奈が言った。