もうずっと、"空腹感"というものを感じていない。が、少しでも何か体に入れないと、体が本当に参ってしまう。明かりの灯ったリビングに入り、対面式キッチンの側にあるダイニングテーブルへと向かうと、テーブルの上でサラダと麻婆豆腐が快を待っていた。

 好物だったはずなのに、匂いが鼻孔をかすめた瞬間、胸がつかえた。しかし、背後には紗織がいて後戻りができない。快は仕方なく、そのまま食卓に着き、箸を握って食事を始めようとした。が、どうしても口をつける気になれなかった。目の前にある食べ物がまるで食べ物じゃないような、食べ物じゃないものを"食べ物だ!"と、無理矢理食べさせられそうになっているような、そんな妙な脅迫感が一瞬、快の脳裏をかすめた。

 箸を動かす事ができず、食事を前に唇を噛み締める。重だるい体と頭が思考を妨げ、自問自答すらままならない。そのままじっとしていると、リビングでテレビを見ていた爽が声をかけてきた。

「お前今日、精神科行って来たんだろう?」

 爽の言葉が、胸に突き刺さった。

「どーだったんだ?」

 何も知らない爽が更に言葉を継ぐ、

「……うん」快はその質問を期に食べる事を諦め、箸を置くと椅子の背にもたれた。

「何でもないって……」

 その言葉に、その場にいた一同が皆、一瞬動きを止めるのが判った。

 キッチンで洗い物をしていた紗織の手、夕刊を読んでいた耕助の眼球、テレビのリモコンを持っていた爽の手……。その全てが快の一言で一瞬、ピタリと止まった。

「何でもない……?」

 にわかに信じられないという顔で耕助が快を見る。紗織と爽も、息を呑んで快を見つめた。

「お前、ちゃんと医者に話したのか?」

 少し怒った声で耕助が言うと、快は黙ってうなずいた。「嘘ついて、どーすんだよ」

 快の返答に耕助が口を閉じる。一番腹立たしいのは快自身だった。

 ――俺が一番、知りたいに決まってんだろ。

 そのまま快は立ち上がり、自室にこもってしまった。



「ごめん、一人になりたいんだ……」

 初めての受診から数日後、いつものように電話してきた瀬奈に突然、快はそう告げた。

「ごめん……」

 瀬奈の返事を待たず、一方的に電話を切る。快はそのまま携帯電話を放るとベッドに横になり、天井を見上げた。

 ゆっくり目を閉じ、長く息を吐き出す。あの受診以来、快の体調不良は一気に悪化し、どうにか学校にだけは行っていたが、部活も、友達との会話も、瀬奈との恋愛も、何もかもストップしてしまっていた。

 ――何もしたくない。考えるのすら、苦痛だ……。