「病院、行って来る」

 冬の近付きを感じ始めた寒い朝、快は突然そう言い、一人で家を出た。

 生後四ヶ月を迎えようとしている優月を抱いたまま、瀬奈は自分の部屋からその姿を見送っていた。

 ジャケットの襟を立て、北風に少し体を震わせながら快が遠ざかってゆく。瀬奈はその色素の薄い茶色の瞳で、その姿が肉眼で確認できなくなるまで、じっと見送った。

 朝から、妙な胸騒ぎを感じている。優月の為にレースのカーテンを引き、冬の日光をソフトな光に変える。どういう訳か、その朝、瀬奈の気持ちは妙に波立っていた。

 この時期はいつも何かが起きる。

 昨年は妊娠発覚。一昨年は快に突然、同居を解消された――。悩みの尽きない季節。気にならないと言ったらやはり嘘だった。

 "ED"を発症した快とは、もう九ヶ月、肉体的接触を持っていない。唇を触れ合わせる事すらも、二人の間にはなくなってしまっている。そしてそれは、これまでどんな困難でも乗り越えてきた二人の関係に、暗い影を落とし始めていた。

 ――入院してた間は仕方ない。けど、もう退院して四ヶ月……。

 考えまいとしているその事が、頭をかすめただけで身体の奥に熱を生む。瀬奈は唇を噛み、拳を握った。

 ――あたしはサイテーの女よ。快が"ED"って知っているのに、体の奥では紅い欲望が渦巻いてる。快を欲してる。どうしてセックスしたいのよ! 大体、"セックス"って何!?

 一時は快との肉体的接触を強く拒み、EDに感謝までしていた瀬奈だったが、時の経過と共に、絶望的なその感情は薄れていた。しかし、長期にわたって肉体関係がない事で、心の接触も離れてしまっているのだろうか? 今の二人はまるで背き合う二本の木のような関係――初めてだった。



 ――楽になりたい。

 アイスブルーの高い空、頬を刺す北風が肌に痛みを連れて来る中、快はしっかりとした足取りで、歩を進めている。

 ――楽になるんだ。

 しっかりと前を見据えた瞳に宿るこもった光。手入れをしていない茶色の前髪が長く伸び、瞳を越え、鼻翼をかすめて風に流れてゆく。

 春には綺麗な花を咲かせていた桜並木も、今は葉が落ち、痩せ細った姿を寒空にさらしている。快はチラリとそちらに目をやり、長い睫毛を少し伏せた。まるで自分のようだ。

 幾度となく通って来た病院への道程が、今日は一段と寂しく感じられる。快は伏せていた睫毛を上げ、アイスブルーの空を見上げた。

 ――俺なんてもう、いらないよな。