遠くに優月の泣き声を聞きながら、快は今日、何度目かのため息をついた。

 ――体が重くて動けない。

 病院を抜け出した翌日から調子をくずした快は、ここ数日、ベッドで寝たきりになっている。

 ――何も考えたくないし、したくない。

 食事もとらず、優月や瀬奈のいる部屋にもリビングにも顔を出さず、ただひたすら横になり、寝返りばかり繰り返して一日を終える。しかし、家族からは何も言われない。

 ――俺はやっぱり駄目なんだ……。

 一進一退を繰り返すうつ病の症状。それにプラスし、今は"ED"という新たなものまで背負っている。

 しばらく調子がよくて、何も疑わなかった。なのに今回の入院で"男"としての機能が停まったばかりか、脳が……。

『脳の一部が萎縮しています』

 脳神経内科の医師の言葉が頭を巡った。入院中、頭痛や意識の遠のきが続き、石崎の指示で受けたCT。そこで発覚した"脳の萎縮"。

 具体的な場所はその時聞いたが忘れてしまって思い出せない。しかし萎縮と言う事は血流が遮断された事で脳細胞が死滅した事を意味する。

 ――俺の頭はマジでイカれてるんだ。だから病気も治らないし、男として役にも立たなくなっちまった。

 "うつ"になった時特有の"果てしなきマイナス思考"が繰り広げられる。自分ではどうしようもない闇の暴走だ。

『いいでしょう。退院を許可します』

 あの夜、瀬奈の連絡で神童家に駆けつけた石崎と土橋は、瀬奈たち家族を交えて快と話し合い、腎臓もうつ病も通院治療で行っていく事に決め、そのまま退院を許可された。

「ありがとうございます。ご迷惑おかけしました」

 石崎たちの言葉に、瀬奈と紗織は何度も深々と頭を下げ、快の無礼を詫びていた。そして翌日、瀬奈と紗織の二人だけで退院手続きが行われ、正式に快を退院した。しかし、長期の入院生活で精神的にかなり追い詰められていた快には、二人に対する謝罪の気持ちも感情も生まれず、当然礼も言わずじまいで今日を迎えてしまっていた。そして、新婚間もないはずの瀬奈と快の関係も微妙な変化を見せていた。



 ――もう何度、ああやって医師(せんせい)に頭を下げてきただろう。

 優月に授乳しながら瀬奈は長いため息をついた。

 ――入院する度、快は脱走して病院に迷惑をかける。それが"病気"のせいだとは理解してるつもりだけど……。

「……疲れる」

 彼女の口からフッと吐き出された言葉が虚しく空を舞い、円を描いて消える。

 疲れる。

 それは、自覚するしないに拘わらず、頑張ってきた瀬奈の正直な言葉だった。