――もう、病院には帰らない……。

 闇の中で快が呟く。彼は自宅近くの海岸にいた。

 ――もう帰らない。

 足元には荷物を詰め込んだボストンバッグ。快はただじっと、海を見つめていた。

 ――何もかもうまくいかない人生はもう嫌だ。縛られ、制限されて生活するのも、瀬奈や優月と離れているのも、もう嫌だ。もう、これっぼっちも我慢しない!!

 電源を切っていない携帯電話が、さっきから鞄の中で騒がしく踊っている。快はあるメロディを探していた。

 しばらくして、ようやく探していたメロディが流れ出す。切ないバラード。瀬奈のメロディ。

「快!!」

 通話ボタンを押すなり耳に飛び込んでくる声。

「今、どこ!?」

「……」

 瀬奈の問い掛けに快は答えなかった。

「快!」

 瀬奈の必死な声が嬉しいようでどこかうざい。

「今すぐ迎えに行くから、どこにいるのか教えて!」

「もう……嫌だ」

 快はそう言うと携帯電話を切り、それを鞄の中にポトリと落とした。



 電話を切られた瀬奈は、絶望的な気持ちの中で終話音を聞いていた。

『もう……嫌だ』

 風の強い場所らしく、スピーカーから風の音が強く聞こえていた。

 どこ……?

 連絡を受け家を飛び出した瀬奈は病院に行き、看護師から快が行方不明になった経緯を聞いた。快は日課の院内散歩の後、一度病室に戻りその後、行方が判らなくなったらしい。忙しい中スタッフが手分けして院内を探し、荷物がなくなっている事から、自宅に戻ったのではと、急いで連絡を入れたとの事だった。

 連絡を受けた石崎と、内科の主治医・土橋(どばし)医師が瀬奈の側にやって来て快の最近の様子を尋ねてきたが、瀬奈も毎日顔を見てない事や、電話越しには特に変わりなかったので、彼の"小さな変化"に気付かず、具体的には何も答えられなかった。

 ――あたしがもっと注意してれば……。

 石崎たちと話した後、瀬奈は激しい自責の念にかられていた。自分がもっと、注意しておくべきだった。育児に追われ、快に対する注意力がいつもより低かったと、攻め続けていた。

 連絡を受けたのは夕方だったが、外はもう暗い。窓の外の景色が瀬奈を更に焦燥させた。

 今にして思えば、優月と退院した時、快はどことなく冴えない様子だった。なぜもっと着目しなかったんだろう。