私は目の前を歩く男の背中を穴が開きそうな程にじっと見つめている。確かに見た目はレンさんそのものだけど、やっぱり違う。

何が、と聞かれても事細かくは説明できない。けれど、絶対に違う。それは、ほんの少し違和感がある……と首を傾げたくなるぐらい。気のせいだと言われればそれまでなんだけど。


昨日も少し変だな、とは感じていた。挙動不審というか、すべてが物珍しいような視線を送っていた。私たちとあまり関わらなかったのも気になっていた。

私は薄々レンさんの異変に気づいていたようだったロイさんとギルさんを横目に、平然を装っていた。いつも通りにしておかないと、何が原因で違和感を感じているのかわからないから。


昨日の時点でレンさんはやっぱりレンさんじゃないと思ったのは、施設に行ったとき。ジェムニさんのレンさんを見る目付きがさっと変わったときだった。

ジェムニさんはあらゆる物事に敏感な人だから、気配や雰囲気でレンさんの異変を一瞬で見抜いた。でも、何も言わなかった。

たぶん、レンさん自身の気配を微量ながらも察知していたからだと思う。


そして、あのときだ。


2人の闘いが終わった後、みんなで囲んだときのレンさんのあの鋭い視線。あの視線には殺気を感じた。

私たちの輪の中に入らなかったことがすでにおかしいことなのに、追い討ちのようなあの射抜かれそうな闇の瞳。

それで、レンさんはレンさんじゃないと思った。振る舞い方は本人だけど、私がふと見つけたときの動作がまったく違う。


さらに、今日の寝癖。レンさんは寝癖だけは許せない人だから。


だから、私はレンさんの身体を誰かが乗っ取っているんじゃないかと確信していた。その正体がこの後、明かされるはず。



彼が立ち止まったところは、レンさんの部屋。私を振り返って口角を上げる。




「ここじゃ嫌か?だが、俺はこの中じゃないと話さない。話す気もない」

「……わかりました。入ります」

「ふっ……」




彼は私を鼻で笑った後、鍵を開けて部屋の中に姿を消した。私も続いて踏み入れる。

部屋の中の私物はクレイモアと荷物しかなかった。まあ、そんなものだろうと一瞥する。


彼はドアの鍵を閉めると、椅子に座った。私にベッドの上に座るように顎で示す。そこしか座るところがないからで、椅子はひとつしかない。


私はベッドに浅く座ると、少し離れたところに座っている男を見上げた。



「で、何が聞きたい?」



彼はさっきと違わぬ質問をしてきた。私はざっと頭の中に質問のリストを作る。



「あなたは本当にマークさんですか」

「正真正銘、俺もマークだ」

「も?」

「おまえが先日会ったやつはマーキュリーの表の部分。俺はそいつの負の部分だ」

「なぜ、別れてしまったんですか」

「俺があいつに不満を持っていたからだ。あいつは滅多に負の感情を表さない。だから俺が愛想をつかせて分離してやったまでだ。晴れて俺は自由の身となり、好き勝手やっている。あいつは憎しみも怒りも持ち合わせていない。それが酷くつまらない」

「でも、悲しみは持ち合わせていますよ」

「それは後悔からだろう?ヴィーナスを死なせた自分が悔しいからだ。だがな、それ以上の野望は持てない」

「野望……?」

「それを誰かのせいにせず、自分のせいだと決めつけている。復讐心がない。それは、俺がいないからだ」

「じゃあ、あなたがいたとしたら、マークさんは今頃どうしていますか?」

「意地でも無謀でも『奴等』に乗り込んで、自滅していただろうな。俺だったら激情に身を任せて単独で乗り込んでやる」




じゃあ、マークさんが冷静でいられるのは、彼が分離したからなのかな。ヴィーナスがいなくなってから心にぽっかりと穴が開いてしまったのに。

でも、それを自分の力だけで埋めようとしている。

それは酷く、悲しいことだと思った。誰にだって時として責任転嫁をしたいときがある。でもそれを彼はしない。できない。やろうとも思わない。彼の負の感情は独り歩きをしているから。


後悔をするのは良心からでもあって、まったくの負の感情とは言い切れない部分がある。

喜怒哀楽。その怒が無くなってしまったマークさんは、そのことに気づいているのだろうか。




「あいつは周りを信頼している。裏切られるとか、傷つけられるとか、そんなことを一切思っていない。愛情は愛情で返されるなどと女々しいことを信じている。愚かなことだ」

「愚かだなんて……」

「ない、と言い切れるのか?愛情を愛情で返されなかった例はあるはずだぞ。例えば……ロイの父親がそうだ」

「ロイさんのお父さん……」

「どんなに息子に憎まれようが妬まれようが、あの男はずっと息子を護るために自由を奪ってきた。最後は和解したような雰囲気だったが、過去に起こった出来事は事実として息子の記憶に染み付いている」

「……」




躾だ、と親がご飯を抜けば、それは子供の恨みになる。その後、許した親がご飯を与えたとしても、お腹をすかせてじっと堪えていた子供はそのときの感情をありありと思い出せる。

子供が悪いことをした。だから二度としないように躾をするのは当たり前。我慢した分成長してくれればいい。

でもそのときの子供の感情は2パターンある。


ごめんなさい、ごめんなさい、と自分を責めるか。

ふざけんな、と親を罵倒するか。


今のマークさんは前者と言える。自分の非を認め、ひたすら自分を責めるのだ。それをする子供はいい子の見本だが、逆手に取れば、少々抱え込みすぎなような気もする。

抱え込みすぎると、その子共はどうなってしまうのだろうか。意気消沈するのか、いつか爆発するのか。


でも、私はマークさんはそのどちらにも当てはまらないと思う。前者に近いような気もするけど。

たぶん、自分を諦めるんじゃないかな。所謂うつ病のような感じになると思う。世界は失望に満たされ、それから目を背ける。世界を諦めたら、自分を否定するのと同じ。

生きてる価値なんてない。生きる価値もない。生きてはいけない。生きても意味がない。迷惑なだけだ。


負の感情と良心の境界線ははっきりとは断言できないけれど、そう思う原因が他人に迷惑をかけたくない、ということだったら、それは良心になるはず。



マークさんは今、とても不安定な存在なのは確かだ。喜哀楽の3点よりも、喜怒哀楽の4点の方が安定する。



「あなたの目的はなんですか」

「目的?そんなものはない」

「え?」

「俺は闇に影響されて動いているだけだ。目的もなにも、俺の意見は尊重されない」

「じゃあ、味方なんですか?」

「味方……この内容だけでそう判断するのはまだ早い」

「……」



私はぐっと押し黙った。私はこの人が悪い人には思えない。対応も的確に返してくれるし、殺気も感じない。

それでも、味方だとは断言できないという。



「俺は『奴等』の仲間だ。おまえたちの味方になった覚えはない。それに、俺は向こうにとっては要らしい。それなりに力が強いからな」

「あなたは敵、なんですね」

「……だが、この身体を返す予定はない」



私が確認するように言うと、彼は声色を低くし無表情になった。さっきまでの薄ら笑いの面影はない。

この表情からは断固として何も読み取ることはできないだろう。



「この身体……いや、レンが俺たちにとっては邪魔だ。野放しにはできん。いずれは敵となり争い戦う。そのときの戦力を減らすためには、こいつを拘束する必要があるのでな」

「あ……待って!」



彼が用済みだ、とでも言うように突然立ち上がり去ろうとしたから、私は慌てて呼び止める。彼はゆっくりと振り返って私を見た。



「どこに行くんですか」

「……戻る。『奴等』のもとに」

「これから……戦が始まるってことですよね」

「あいつらに聞いたのか?なるほど、向こうも俺たちの動向には目を光らせているのか」

「……レンさんは、返してもらえないんですか」

「そのつもりだが」

「レンさんは生きてますか」

「……生きてはいる。だが、完全に戦意喪失だな」

「え……?」

「こいつは生きる希望が持てなくなった。明日が来なければいいと望んだ。俺はそれを叶えたまでだ……それにしても」



彼は無表情から不敵な笑みへと変え、私にずいっと近づいて来た。一歩ずつゆっくりと歩いて来る。

私はそれに準じて一歩ずつ後退した。


やがて、私の背中に壁がトン……と着いた。私はビクッと驚く。

それを見てさらに彼は笑みを深め、私の髪に手を射し込み滑らかに掬う。片腕は私の顔のすぐ隣で壁に押しあてられていた。

彼は流れていく髪を見ながら口を開く。



「謎だな……ヴィーナスは金髪だったのに、おまえは銀髪をしている。瞳も金じゃない」



その言葉と共に吐息が耳にかかり思わず身を捩る。あまりの近さに恐怖を抱く。この人は、敵なんだ。

彼は動くな、とばかりに私の足の間に片膝を挟んだ。両手で身体を離そうと彼の胸を押すもびくともしない。



「何を怖がる。おまえの好きなやつの身体だろ?」

「つっ……!」



私は顔を真っ赤にさせて驚愕する。私のそんな表情を見て満足そうに笑う。

見抜かれているとは思っていなかった……


彼は顔を近づけて私の目を覗きこみ、唇同士が付きそうな至近距離で呟く。その瞳にはほんの僅かだけ、温かいものが入っていて困惑した。

なんでそんな目をするの?



「あいつはな……ヴィーナスにぞっこんだったんだ。今も昔も」

「昔も……」



私はぽつりと呟いてハッと気づく。

そうか、わかった。この瞳の意味が。この温かさの意味が。


彼もまた、ヴィーナスが好きなんだ。