ひとりの少年が佇んでいた。

そこは、紫色の月が浮かぶ影の世界。その月が少年に影を落とす。

すると、その影は動き出し少年から離れて行った。ゆっくりと、静かに。




「戻れ、自分を見失うな。おまえはおまえだ。闇に呑まれるんじゃねーよ」




その声に影はもと来た道を戻り、少年にぴったりと寄り添った。

ここは、影の世界。影が自由に行動できる世界。時には主を忘れ、主のもとを去ってしまうときがある。

いつかは戻って来るが、その影が以前と同じ物かはわからない。




「おい、ガキんちょ。しっかりしろ。なんでこんなとこにいんだ?」




言葉の主は少年に近寄り話し掛ける。大柄な男はしゃがみこみ、少年の顔を覗いた。




「……わからない」




思ったよりも低くて冷静な声に驚いたが、静かに首を振った少年を見つめる男。

8歳ぐらいだろうか、あどけなさを少し残している少年。しかし、その表情は大人びていた。

或いは、表情に変化が無いと言った方が正しいか。




「おまえさん、どっかのぼんぼんか?随分と良い身形(みなり)してんな」




少年は貴族が着るような、上質な素材でできた服を着ていた。しかし、派手さはない。

装飾も模様も質素。

上質な素材の余りを使って作られたような造りだった。




その問いにも首を振り、わからない、と少年は無機質な声で言った。

そんな少年に困ったような笑みを浮かべながら、男は手を差し伸べた。




「ついて来い。まずはここから出るぞ」




少年はその手をずっと眺めた。まるで、何をすればいいのかわからない、と言った感じで。

強引なのはどうかと思ったが、男はやむを得ず少年をその広い背に背負う。

しかし、少年は抵抗どころか反論もしない。




「めんどくせーやつ拾っちまったかな……」




男はぼそっと呟いてから、片腕で少年を背中に固定し、鈴をポケットから取り出す。

そして、左右に揺らし鳴らし始めた。




「……さよなら」




少年がそう囁いたかと思った男だが、その途端にずしりと片腕に重みが乗った。

寝言だったのかもしれない、と思い直し、どの世界とも見た目の変わらない森から脱け出す。





「家の奥さんはどんな顔するかねー」




きっと、驚いたような顔をしながら笑うんだろうと想像しながら、男は家路を急いだ。




それから、少年は男の養子となり大事に育てられた。まったく自分のことがわからないらしい少年。名前はかろうじて覚えていたらしく、レン、と名乗った。

だが、覚えていたのはそれのみ。家族すらも覚えていないという。

男はそんな少年に、地道に指導をした。


剣術はもちろん、馬術、料理、歴史、地理、数学など、ありとあらゆる一般的な知識、そして身体的能力の向上を促した。

少年は砂が水を吸い込むかの如く、それらを吸収していった。

その才能は男たちも目を見張るものがあった。いったい今まで何をしていたのか、と疑問に思わざるを得なかった。




「やっぱり貴族の子なんじゃないの?こんなに秀才な子は会ったことがないもの」




妻にそう言われ、ブランチの本部に問い合わせの文を出した男。しかし、返って来た文には彼らしき子供の捜索願いは出されていない、と書かれていた。

では、本当に少年は孤児なのだ、と男は改めて実感した。それとともに、少年の今後を案じた。

このまま行けば学者になれるのかもしれない。しかし、そうすれば彼は自分の世界だけに没頭し、周りに壁を作ってしまうだろう。



第一、それほど少年は人付き合いが悪かったのだ。というより、少年はあまりにもおとなしすぎた。

少年のどこかさめた態度に嫌悪感を抱く同年代の子供たち。遊ぶこともしゃべることもしない少年は、時間も経たずに疎外されていった。



そんな少年を不憫に思い、妻は思わずぽろっと質問した。




「どうして、いつもひとりぼっちなの?寂しくないの?」

「……俺は群れるのは嫌いだ。ひとりの方が、楽。みんな違うから、みんながわからない。わからないから、どうすればいいかわからない」

「わからない?俺たちだってレンのことはこれっぽっちもわからないんだぜ?わからなくて当たり前だろう」




男は真剣な瞳を少年に向けた。その真っ直ぐな瞳にしばらく立ち向かっていたが、居たたまれなくなったのか、ふいっと目を反らした少年。

男は気を悪くしたような雰囲気もなく、少年に語りかける。




「……ふむ。どうしたもんかねー。なんか良い方法ない?」

「さあ。わたしにも専門外な問題だから難しいわね」

「んー……じゃあ、いっちょ本部に預けてみるか」

「え?本部?何かあるの?」

「ちょっとした児童養護施設があってよ。そこでは適応者の指導が行われているんだ。まあ、極秘だけどな……

たまーにいるんだよ、ブランチに適応者の子供を置いて行く親がな。怖いからどうにかしてくれってなもんでな。そこに預けてみたらどうなるか、少し気になる」

「それじゃあ、わたしたちだってその親と同じじゃないの。わたしはちょっと……って思うわ」

「ずっとは預けねーよ。そうだな……半年、とかどうだ?それなら付かず離れずな関係でオサラバできるぞ」

「……まあ、レンちゃんのためになるなら。今の現状を打開できないと、将来が不安だし」

「そうだろ?よし、決まりだ。レンにも世間を知ってもらわないと何かと不便だ。それに……」

「……何笑ってるのよ」

「……ん?笑ってねーよ。にんまりとしているだけだ」

「同じよ!」

「そこに行くからには、レンにもブランチに入ってもらう」

「……そうなるとは思ってたわよ。剣術を教えている時点でおかしいと思ったわ。敢えて口出しはしなかったけど」




剣術を教えていた男。少年は意外にも興味を示したため、内心ニヤニヤとほくそ笑んでいたのだ。

こりゃー、使えるヤツになるかもしれん、と。


まだまだ未熟だが、筋は悪くない、と楽しみながら指導にあたった男は、施設に入れる入れないにしろ、ブランチに入団させようと考えていたのだ。

有望なヤツ程、期待の星になる。


ブランチはそう考えると、男は読んでいた。

そして、早速少年をブランチに引き渡した。本部からの迎えが来たときの別れ際、少年は心なしか暗い顔をしていた。

いつも以上に、寂しく。

男はそんな少年に声をかけた。




「半年だけだと思っていたが……気が変わったらもっと向こうにいてもいいからな。ただし、俺が生きている内だけにしてくれよ。

強くなったおまえさんが見たい。また剣術教えてやっから、そんな暗い顔すんな。お土産話待ってるぞ」



男は少年の頭の上に手を置くと、少し強くごしごしと撫でた。

少年は不意だったのか、少しよろけたものの立ち直す。

そして、今度は逆に真っ直ぐな黒い目を男に向けた。

何も言わなかったが、それだけで男は十分だった。

なぜなら、そこには今までに無い強い光が垣間見えたからだ。これなら問題ない、と男はにっと笑った。

少年からは、暗さは消えた。その代わり、少しだけだが明るさが灯った。





そして、少年は男のもとを離れた。しかし、きっちりと半年後には戻って来た。


……笑顔を見せながら、ただいま、と言って。