私はその光景に、血の気が引いていくのを生々しく感じていた。

枯れたはずの花が赤く咲いている。花だけじゃない、葉も、茎も赤く染まっている。


叫びたいけど、叫ぶことができない。だって……あの人の手が、私の口に当てられているから。



「こいつは便利だな。果物ナイフを常備しているとはなかなか気が利く」



そして、首の下から僅かに音が鳴った。ナイフが首に突き付けられているのだ。

そのナイフは、いつもレンさんが持ち歩いていたナイフ。料理ができるレンさんには欠かせない物だった。


それが今、凶器へと成り果てている。




「どうだ?止血はできたか?」

「ふざけやがって……」




すぐ耳元から聞こえてくる好きな人の声。でも、喋っているのは別人。だけど……抵抗できない。

必死に袖を傷口にあてて止血を試みているロイさんとギルさんを見ているのに、何もできない。


それは、彼だから。彼だから、何もできない。



「ほら、あいつらを見てみろ。おまえたちの遺伝子を取り込んだあいつらを」



ちらっと視線を移せば、あり得ない光景が飛び込んで来て息をのんだ。

ロイさんとおぼしき影と、ギルさんとおぼしき影。その2体は首や肩を回したり指をポキポキと鳴らしたりして身体の感触を確かめていた。


真っ黒な影なんだけど、その動きは本人そのもの。持っている武器もまた真っ黒な物だけど、見間違えようもなく、銃とダガー。



その様子に2人は絶句していた。




「驚いたか?あんな醜い姿ではあまりにも酷だろうと思ってな。おまえたちの遺伝子を拝借した。まあ、返す気はさらさらないが」

「どこまでイカれてやがんだよおまえらは!」

「イカれてる?俺たちが?寝言は寝て言え。黙って滅ぼされるのを抵抗しているだけだ。おまえたち人間のやろうとしていることとなんら変わりはない」

「おかしいだろーが!遺伝子を組み換えて何が楽しいんだよ!」

「楽しい?戯けが。あいつらだって苦しいんだ。知ってるだろ?重力がこっちの方が強いってことを。それで肺が潰されて何人の神類が死んだと思っているんだ。

だから慣れるよりも、慣れているものを取り込んだ方が得策だと思わないか?」




死んだ神類がいたんだ……

来たくて来たわけじゃないこの世界。藁にもすがる思いでティーナについてきた神類たち。

その結末が、なんて残酷な仕打ちだったのだろうか。生きるために必死だった。強くなるために必死だった。

例え自我を無くしても、生きられるならそれでいい……


まさか……あの飛んでいた魔物は皆瀕死だったから?ああやって生きる屍に成り果てるのを承知の上で取り込んでしまったの?


もう……何が悪いのかわからなくなってきた。




「黙って聞いてりゃ偉そうに。あんたなんか何もできないじゃないの」




視線を落としていたら、ふいに聞こえた力強い声。声の主はギルさんだけど、ギルさんじゃない。



「大人しくマーキュリーと同化すればいいのに。あんたは確かに強いだろうさ、でもね、負よりも正が強いのよ」



マーズさんはそれだけ言うと、ふっと戻って行った。本当に言いたいことだけを言ったみたい。

ギルさんはうげっ……と声を漏らした。相当操られるのが嫌いなんだな。


後ろからクッと喉が鳴る音が僅かにした。




「戯れ言を。俺は強い。この身体もあって並大抵の人間にも神類にも屈しない。あんなやつと同化するなど、ヘドが出る」

「それなら、滅びるがいい。そして二度と、この世界に干渉しないことだな」




今度はロイさんがそう喋った。でも口調の感じからして恐らく本人じゃない。サターンさんが喋ったんだ。



「人間に加担するなど、おまえたちの方が余程干渉している。自分の一部を人間に分け与えたおまえたちに言われる筋合いはない。おまえたちは矛盾が多すぎる。

……さあ、そろそろ良いだろう」



その一言で、今まで準備運動をしていた影たちが動き出した。それぞれがそれぞれの本物に衝突していく。

私はそれを黙って見ているしかなかった。2人は遂に戦闘を始めてしまった。止血はなんとか終わらせられたみたいで安心。

でも、助けてもらえる状況でもないし、抜け出せる状況でもない。

第一、この男からの私に対する殺気がない。だからロイさんもギルさんも私が捕らわれてしまっても焦っていなかった。


いったい、何がしたいのか。



「おっと」



後ろにいる男はそう呟くと、前方へと少し飛んだ。私の身体も軽々と宙に浮く。

ふわりと着地してもといた場所を確認すると、ちびレンさんが勇敢にも剣を持って降り下ろした格好で立っていた。

すぐ体勢を立て直してまた向かって来る。



「あそこで固まっているだけの連中とは大違いだな」



ひょいひょいと攻撃から身軽にかわしながら面白そうに笑った。そのおかげで口から手が離れる。


確かにマークさんたちは微動だにしない。


でも、それを責める権利は私たちにはない。なぜなら、彼らには力がないから。人間を食らわず何年もこの世界にいる彼らには、戦えるほどの体力は残されていない。

それは感謝するべきことでもある。



「おおっと、動くなよ」



男は動きを止めると、さらに私の首にナイフを突き付けた。ちびレンさんの動きもピタリと止まる。

……そうだった、私は人質なんだった。いつまでも傍観しているわけにはいかない。


ひやりと冷たい感触のおかげで、どういう状況に自分が陥っているのかを思い出せた。


ピンチをチャンスに変えないとね。


私は思わずふふっ……と笑ってしまった。案の定後ろから訝しげな声が聞こえてきた。



「何がおかしい」

「いえ……ふふっ……こうやって抱き締められたことはあまりなかったな、と思いまして」

「こいつがそんなことするやつとは思えん」

「パーティーのときは一度だけ、してくれたんですけどね」



しつこいあの男を床に捩じ伏せてしまって追い出されそうになったとき、レンさんは呼び止めてくれた。そして、肩を抱いてくれた。

妹って言われて寂しかったけど、でも迷わず呼び止めてくれて嬉しかった。


その想いが、彼に届いてほしい。



「感傷に浸っている場合か?自分が今どんな事態に置かれているかわかっているのか」

「わかってますよ。大ピンチなんですよね私」

「なぜ笑っていられる」

「そうですねぇ……あなたに私は殺せないと確信しているからですかね」

「……」



だって、殺気感じないし。着地のときも私に気を使って衝撃を和らげてくれた。

何をしようとしているのかはわからないけど、私をどうこうしようとは考えていないんじゃないかっていう気がする。




「今は生かしているだけかもしれんぞ。人質を先に殺してしまっては意味がない」

「なら、さっさと殺せばいいのに」

「……」

「殺せないんですよね?殺したくない。ヴィーナスを二度も殺したくない」

「……っ」



ああ、やっぱり。彼は後悔してる。自分の犯した過ちに後悔してる。

ヴィーナスを追い詰めてしまったのは自分。だから負い目を感じて酷似している私を殺せない。




「……黙れ。俺はおまえを殺せる」

「なら、さっさとしてください。私は死に対しては恐怖もなにも感じていません」

「なぜそう言いきれる」

「……十分、生きたからです」



そう。これでもかっていうぐらい生きることができた。団長が拾ってくれなければとっくに朽ちていた命。

その命が、19年も生きている。脈動している。

それだけで、十分だ。




「私には親がいない。本当はとっくに死んでいる命だけど、いろいろな人の手によって今も生きている。

0年と19年の差は大きいと思いません?」

「……」

「ヴィーナスさんだって、満足したと思いますよ。十分生きられて」

「……黙れ」

「彼女も、あなたのせいで死んだなんて思っていないはずです」

「黙れっ!」



怒鳴り声の後、凄まじい毒気が彼から発せられた。ぶわっとそれは広がり私もろとも包み込む。


……苦しい。喉が、痛い。胸が、苦しいよ───