玄関の方で、小さな物音が聴こえた。
素肌に上着だけのみっともない姿で駆け出すと、ドアを慌てて開けた。
「……起きてしもうたか」
へにゃりと笑う千景さんに、ついムッとして言い返す。
「何も言わないで出て行かれる方が辛いんですよ」
「そっか……。ごめん。
りこの寝顔見てると、離れたくなくなるんや」
……そんなこと、言わないでください。
言いそうになった言葉を、ぐっと飲み込み、わざとらしい作り笑いを浮かべた。
「さよなら」
そう言った瞬間、さっと唇に何かが触れた。
気付いたら、千景さんの顔が離れていって。
「さよなら」
と、一言だけ残し、ドアを閉めた。
唇に残った感触は、無機質な接触。
ただ、触れただけ。
目を開けていたのに、分からなかった。
この接触が、最後のキス。
「あ……」
本当に、もう居ないんだ。
千景さんに、会えない。
抱きしめてもらうのも、キスしてもらうのも、昨日が最後。
その場にへたりと座り込み、床に落ちた涙の滴を指でなぞる。
千景さん
千景さん
千景さん
声を上げて泣きたかったのに、声が出なかった。
喉の奥から掠れた音が聴こえるだけで、声にはならなかった。
最後にあんなの、ずるい。
既に消えた温もりを探そうと、下唇を撫でてみるも、乾ききった皮膚がそこにあるだけだった。
この悲しみも、切なさも、胸の苦しみも、全部流してしまいたい。
目から零れる液体と一緒に、
全部、全部。