その日の夜10時に、千景さんが帰って来た。
「おかえりなさい」
と、言ってみたが、顔も合わせずに「ただいま」と言って部屋に入ってしまった。
もう繕う余裕もないみたいだ。
疲れきっている。
こんな様子じゃ、話したいことを切り出すのは無理かも。
「今はそっとしておこう」と、遠ざけてきて、もう何日だろう。
ただ、自分が訊く勇気がないだけなのに。
大きな溜め息を一つ零すと、リビングに千景さんがやってきた。
思いつめたような表情で、私と同じように溜め息を吐いてソファーに座った。
何時間にも感じられる沈黙。
居ても立ってもいられず、私はココアを作り始めた。
スプーンがカップに当たり、カンッと高い音が鳴る。
一瞬、沈黙が破られたように感じるも、また元通り。
いっそのこと、カップを割ってしまえば、こんな息苦しい沈黙は消えるかもしれない。
なんて、馬鹿げたことを考えながら、お湯を注いだ。
手に持った2つのカップ。
何も言えず、千景さんの前にカップを置くと、「ありがとう」の一言だけが返ってきた。
熱いココアを飲んでも、なかなか温まらない身体。
喉元を過ぎれば、また冷たさと渇きが覆い被さってくるようで。
俯いたまま、ココアの茶色だけを見つめていた。
「りこ」
ずっと聴いていないような、名前を呼ぶ千景さんの声。
「ごめんな。気にせんといて」
苦しそうで、悲しそうだった。
それは、何に対して謝っているの?
何かやましいことでもあったの?
「気にしないで」。
無理に決まっている。
そんな顔で、声で、気にしない人なんている訳ないじゃない。
「いつも、そればっかりですね」
とうとう、言ってしまった。


