「行くぞ」
「え?」
「帰るだろ」
「…帰りますけど」
「さっさとしろ」

尚嗣に急かされて、絢女は手早く荷物を纏める。

「長谷部、帰るからな」
「お疲れ様でした。明日以降は連絡だけは取れるようにしておいて下さいね」
「ああ」
「神崎さん、社長をお願いしますよ」
「あ、はい…わかりました」

また尚嗣に急かされ、長谷部に一声掛けると社長室を後にした。
自宅に送られると思っていたが、全く別方向に向かっている。絢女がどこに行くのかと訊いてみれば、尚嗣の自宅に向かうとの事だった。

「うわ…モデルルームみたい」
「座って待ってろ」

そう言うと、尚嗣は奥の部屋に入って行く。どうやら荷物を纏めるようだ。
今夜はこのまま絢女のところに泊まるつもりらしい。
ぐるりと部屋を見渡すが生活感のないモデルルームにしか見えない。暖かさの欠片もない空間で、尚嗣は暮らしているのだと知った。
確かに尚嗣は生活感を感じさせない男だ。

普段どのように過ごしているのかを疑問に感じるほどに。
興味本位でキッチンを覗き込むと、機能的で理想的なキッチンだ。収納も多く、広い。
だがポットや炊飯器、鍋などの調理器具は全くない。

「…何だ、そこにいたのか」
「すいません、気になっちゃって」
「ここに住んで二年になるが、キッチンを使った事はないぞ」
「…勿体ない…広いし使いやすそうなのに」
「………」

ふと思うのは神崎家のキッチン…広くはないが、生活感に溢れた幸せな空間だ。このキッチンでエプロンをした絢女がふわりと笑いながら、暖かな料理の盛られた皿を手に振り返る姿を想像していた。

「…立ってみるか?」
「え?」
「ここに…」

ふわりと背中から包むように腕を回される。ただでさえ言葉の意味を理解し得ないのに、今の行動や前夜のキスを思い出して更に混乱した。
不意に背中に感じていた温もりが消える。

「…行くぞ、啓太と百合が帰りを待っているんだろう?」

促されて部屋を出ると、尚嗣の部屋の前には女がいた。

「前島さんっ」
「…失礼、どちら様だったかな」
「由香里ですっ!昨日…あなたに…フラれた…」
「あぁ…そんな事もあったか」
「…誰なんですか、その人っ」
「私の秘書ですが?」
「そんな人みた事ありませんっ」
「最近、採用しましたからね。それにうちの従業員の採用の事でお窺いを立てる必要があるのか?」
「っ!?」
「訳知り顔で踏み込んでくる女は好きじゃない。行くぞ」

尚嗣は絢女を庇うように促し、歩き出した。
無言で助手席に押し込むと、神崎家に向けて発進させた。


「さっきの…よかったんですか?」
「構うか」
「でも…付き合ってたんじゃ…」
「元取引先の常務の娘だ…週一度食事に行っていただけで、元々付き合うつもりはなかった。返事は後々するつもりだったのを、昨日しただけだ」
「…それってもしかして…榛マシナリーとの新規契約の…?」
「きっかけ、だな」

さらりと言って退ける尚嗣の冷たさに、絢女は思わず黙り込んだ。尚嗣はそんな男ではないと、心のどこかで信じたい自分がいたから…。

「幻滅、か?」
「…何か…フッた理由はあるんですか?」
「仕事の付き合い上、強く勧められて食事に行っただけの相手だ。それに俺と婚約するだのと父親に言ったり、辺り構わず吹聴されたばかりに、契約を取りたかった相手先から蹴られた」

尚嗣がどうしても契約を取り付けたかった相手先は、尚嗣が欲した部門以外では白沢工業のライバル社だった。

「事実もないのにそんな事をされて、二年掛けたプロジェクトが潰れたんだ。費用は全て損失だ。俺には責任がある。あの女にはそれをなしに考えられる程のメリットはない。俺にも会社にもな」
「………」

大きな溜息を付くと、尚嗣は煙草を銜えた。イライラした時には必ず煙草に手が伸びる。

「それは…やっぱりダメですよね。好きな人の事、自慢したい気持ちはわからなくもないけど…」

絢女は尚嗣がライターを探す手に応えて、鞄からジッポを取り出して火を点けてやる。

「相手の事を束縛したいって思うのは仕方ないけど、その人をそんな風に困らせるのはダメ。男の人の仕事って大事だし、プライベートとは別だから…そこはちゃんと抑えてあげなきゃ」

絢女は前を向いたまま、そう告げた。まるで自分の過去を振り返るように思えた尚嗣は、苦い気分を味わいながらも駐車場に車を滑り込ませる。

「…絢女」
「っ…」

尚嗣に名前を呼ばれて、ハッとした。

「…ごめんなさい、私…つい…」
「いや…お前の言う通りだ…お前のところがやけに居心地いいのはそのせいだな」
「社、ちょ……」
「絢女」

尚嗣が助手席の方へ身を乗り出してくる…頬に触れる掌は一体何人の女に触れたのだろう?
柔らかくそっと触れてくる唇に、何人の女が酔いしれたのだろうか?

「絢女」

普段からは想像出来ない優しい響きは、何人分の名を呼んできたのだろうか?

囁き一つ、キス一つにこんなに苦しくなった事はない。囁きもキスも…幸せな気分にしてくれるはずなのに…。
啄むように触れるだけのキスは次第に深くなる。尚嗣に唇を明け渡すと、車内で覆い被さるように抱き締められて、時間の感覚を失うほど、キスは続いた。

「行こう」

漸く唇を解放されると、車内は薄ら曇っていた。それほど濃厚だったのかと恥ずかしく思ってしまう。
先に降りた尚嗣にドアを開けられて、またハッとする。自然に差し出された手を取ると、引き寄せられて寄り添うように歩き出した。
慣れた素振りにやはり苦しくなる。



尚嗣に対するこの感情を…絢女ははっきりと理解してしまった――。