口調に嫌味はないが、言葉自体は完全に嫌味だ。
不機嫌面で尚嗣は口を開いた。

「神崎絢女、話がある」
「嫌味?」
「社長に向かって何だ、その口の利き方は」
「私、前島物流辞めましたから。だから社長だろうが何だろうが気にしませんよ?お互い一般人ですから」

にっこり笑う絢女の笑顔は、見た事がない程に自然に見えた。

「上げてくれてもいいんじゃないか?」
「へ?…じゃあどうぞ」

絢女が中へと促すと、鼻で笑って玄関に入った。
ソファに尚嗣を案内すると、絢女はコーヒーを淹れた。

「………」

出されたカップを手に取ると、すぐに確かめるように口に運ぶ。
やはり仄かな甘さを感じる。

「お話って?」
「まずはこれを」

A4サイズの封筒を差し出され、中を確認する。
中には就業規則と契約書など、数種類の書類が入っていた。

「これは…?」
「前島商事…まぁ俺と直接交わす契約書だ」
「直接…?」
「ここには家族と住んでいるのか?」
「父は腎臓の病気で入院中、母は他界。ここには私と小学六年、三年の弟と妹でくらしてます」
「…今後の生活はどうするつもりだ?」
「え…人生相談、とかですか?」
「………」
「とりあえず仕事をすぐ探します。父の入院費の事もありますから」
「ならばそれをよく読んでみろ」

言われるがままに尚嗣から受け取った書類を隅から隅まで読み始める。

「ただいまぁ!お姉ちゃ~ん」
「おかえり、百合。啓太もありがとね」
「お姉ちゃんに…お客さん?」
「会社の人なの。おやつは冷蔵庫に入ってるからね」

二人の弟妹は手を洗って冷蔵庫を開ける。

「パウンドケーキ!」
「百合、待って。僕が切ってあげる」
「じゃあ私生クリーム飾る!」

楽しそうに弟妹はパウンドケーキを飾る。

「どうぞ」

すると弟の啓太が尚嗣にパウンドケーキを切り分けて持ってきた。

「コーヒーのお代わり、いりますか?」
「すまないな、お願い出来るか?」
「はい」

啓太はにっこり笑ってキッチンに向かう。

「…悪い条件ではないだろう?」
「………」
「他に条件があれば言ってみろ。出来る限りは聞いてやる」
「…要は雑用係、ですよね?」
「まぁ、そうだな。だが前島商事社長室付きの正社員だぞ?」
「…正社員……」
「それだけでもお前にはメリットだ」

尚嗣は自分の提示する条件に満足しているのか、傲慢にも見える笑みを浮かべていた。
派遣会社から前島物流入りし、引き抜かれて準社員となった絢女はあと半年、契約更新をして勤め上げれば正社員に登用されるはずだった。
最終的には正社員になる事が目的の絢女だが、尚嗣の提示する条件は高級待遇過ぎる。

「…話が巧すぎるんですよね…逆に怪しい…」
「疑り深いな」
「当たり前ですよ。クビ切り好きな前島グループのクビ切りジャック社長が、契約切れ間近で自主退職した準社員にこんな高級待遇の契約書を自ら持参するんですから」

切り裂きジャックに例えた言い回しに、尚嗣は青筋を立てて笑顔を無理矢理保っている。

「誰がクビ切りジャックだ…」
「クビ切り魔の方がよかったですか?」
「その例えを止めろっ…心外だ」
「自覚はあるんだと思ってたんですけど…」
「クビ切りが好きなわけではない…」
「でもミスカフェとラッテはどう考えても嫌がらせでしたよね?」

絢女の言葉に尚嗣は黙り込む。

「暇潰しの従業員イビリじゃないですか。捻くれすぎです。そんな社長付きなんて精神的にダメになって行きそうで、長く続けられそうにありません」

きっぱりと言い切る絢女を、珍しいものでも見るように凝視する。
微妙な空気の中、啓太がコーヒーを持ってきた。

「あぁ、ありがとう」

啓太が淹れたコーヒーも絢女には劣るが、いい香りがする。
見ている前で口を付けて驚いた。

「…小学生には思えないくらいに旨いコーヒーを淹れるんだな、君は」
「お姉ちゃんに教えてもらったんです!お金貯めて喫茶店やるんだ!」

啓太から聞いたそれに絢女を見れば、知られたくなかったのか苦笑いしている。
「いいな…喫茶店か」
「僕、バリスタになりたいんだ」
「君は啓太くん…だったな?」
「うん」
「君のお姉さんを俺の会社の社員にしたいんだ。美味しいコーヒーをいつでも飲みたいからね」
「ちょ…前島社ち…」
「給料も休みも普通の会社よりもいいし、ここからも近い。だがお姉さんは俺の事が嫌いらしくてね」
「お姉ちゃん、何で?」
「うちには国内数カ所と海外に保養所があるんだよ。ちょうど今は春休みだろう?近々、沖縄の保養所に行くんだが、啓太くんたちも一緒に来るかい?」

人好きする営業用の笑顔で啓太に話す。
目を輝かせながら啓太は嬉しそうな顔をしたが、すぐに表情が陰る。

「ぁ…嬉しい、けど…お父さんの事、心配…だから…」
「お父さんの事は心配いらないよ?俺の親戚の大きな病院に替わって、きちんと治してもらおう。有名な医師もいるから」
「お兄さん、何でそんなに親切なの?」

不安げな啓太の瞳の光は絢女に似ていた。

「俺には兄弟がいなくてね…賑やかな生活に憧れているんだ。お姉さんが忙しくて旅行なんて、あまり行けないだろう?だから俺が連れて行ってあげたいんだ」

絢女を引き込む布石でしかないそれは、普段の営業にも生かされている。
将を射んと欲すればまず馬を射よ…足元から崩すのは鉄則とも言えた。

「よかったら一緒に来てくれないか?」
「…お姉ちゃんと百合も…一緒?」
「勿論だ」
「沖縄に行った事はあるか?」
「ないよ」
「そうか…海が綺麗で、自然も多い。きっと気に入る」

尚嗣はあっさり啓太を丸め込むと、啓太に釣られるように百合も尚嗣に懐いてしまった。
子供の相手をするつもりなどさらさらないが、絢女には年の離れた弟妹を手懐けるのが一番有効だと判断した。
啓太と百合は年の割には物分かりもよく、尚嗣が困るような事もなかった。
どこか幼い頃の自分を見ているような気がして仕方なかった。

「来週の火曜から三泊で行くから、用意はしておくんだぞ?」
「ねぇねぇ、尚嗣お兄ちゃん!何持っていけばいい?」
「そうだな…薄手の長袖に、半袖もだな。水着もいるぞ?」
「泳げるの!?」
「シュノーケルだけで熱帯魚を間近に見られるくらいの海でな」
「うわぁ~!楽しみ!」

はしゃぐ弟妹に、尚嗣は気付けば自然に笑顔を向けてやっていた。
ふと尚嗣が絢女の視線に気付く。
絢女は穏やかに自分たちを見ている。
笑みを浮かべる絢女…柔らかく包むような視線は肩の力が抜けるように感じられた――。