「…尚嗣さん」
「………」

言葉を遮ったのは絢女の唇だった。そっと触れてきた唇は、仄かに甘いような…不思議な心地にさせた。

「私、尚嗣さんが好きなの」
「っ……」
「だから…」

今度は尚嗣が唇で言葉を遮る。
高揚するような【好き】を言われたのはどれくらいぶりだろう?胸に広がる熱さと、背筋を這い上がる歓喜。

「絢女…うちへ来い。啓太と百合も一緒にうちで暮らせ」
「そんな…ダメ…」
「部屋なら一人一つだって割り振れる。啓太たちの学校なら、うちからの方が近い」
「そうじゃなくて…」
「お前と暮らせるなら…どんな事だって苦にならない」

そんな雰囲気の中、尚嗣の携帯が着信する。

「…チッ…何だ」

軽く舌打ちすると、尚嗣はそれを受ける。相手は長谷部だ。

「……そうか…それなら散々に引き回してやる…あぁ、当然だ。依頼主は白沢工業の岩井常務の娘だった…俺の逆鱗に触れたらどうなるか教えてやる」

尚嗣の表情が意地悪く笑う。

「ひとまず今から啓太と百合を連れに戻る。二人共大丈夫か?」

尚嗣が啓太と百合の様子を気にする言動を見せてくれるのに安堵する。

「あぁ、啓太?そっちは大丈夫か?……そうか、百合は頼んだぞ?……フッ…任せておけ。今日から俺の家で暮らすからな……あぁ、待ってろ。何か欲しいものは?……そうか、わかった」

フリップを閉じて、絢女を見る。

「向こうは大丈夫らしいな。百合が泣き疲れて寝たらしい。とにかく早く帰ってやろう。啓太はアイスが食べたいらしい」
「尚嗣さん…」
「行くか」
「…はい」
「で…啓太のアイスはどこのが好きなんだ?」
「サーティエイトのチョコバニラサンデーが好きですよ。百合はダブルストロベリーですね」
「…よくわからんι」
「食べてみるといいかもしれませんよ?」
「そうだな…一緒に暮らすなら好みくらい知っておくべきだな」

尚嗣がふわりと笑うと、絢女はホッと息をつく。

「…私にも、尚嗣さんの好み…教えて下さい」

「俺の好み?神崎絢女だが?」
「っ…そう言うのじゃなくてっ」
「食だろ?食うなら旨いモノがいい。だから神崎絢女が好物なのは間違いじゃないだろ?」

アクセルを踏み込みながら、尚嗣はそう告げる。全ての悩みを吹っ切ったような晴れやかな表情で。

「俺は三食絢女でも構わない」
「っ…もう尚嗣さんっ…私は食べ物じゃありませんからっ」
「エネルギー源だ」
「堂々と言わないで下さいっ」
「嘘じゃないぞ?」

ハンドルを握りながらの会話だが、それがやけに楽しい。

「次の信号左で…突き当たりの右手です」

駐車場に派手な車を乗り入れて、尚嗣のエスコートで二人してアイスクリームショップに入ると、スーツ姿の二人は注目の的だった。

「テイクアウトでダブルストロベリーサンデーとチョコバニラサンデーを一つずつ、レモンシャーベットをレギュラーカップで一つ」

絢女の注文が呪文のように聞こえてきた。

「尚嗣さんは?」
「任せる」
「じゃあエスプレッソのシングルカップを二つ」

会計を済ませて袋を受け取ると、尚嗣が絢女から荷物を取り上げた。その動きに礼を言うと、絢女は促されるままに左ハンドルの助手席に乗り込んだ。







「お姉ちゃん、尚嗣お兄ちゃん!」
「お疲れ様です。社長、神崎さん」
「長谷部さん、すいませんでした」
「いいえ?百合ちゃんは寝てますし、啓太君はいろいろ話してくれましたから有意義でしたよ」

社長室のソファには百合がぐっすり眠っていた。啓太の上着を掛けられて…。

「啓太、アイスだ」
「ありがと、尚嗣お兄ちゃん!」

啓太は百合を起こしてやる。百合は絢女と尚嗣の姿にホッとしたように、二人でアイスを口にし始めた。

「引っ越し業者には揺さぶりを掛けました。神崎さんが尚嗣の関係者だとは聞かされていなかったようですね」
「自業自得だ」
「十分ほど前に白沢工業の社長からお電話がありましたので、非常に簡潔にお話致しておきましたので」

長谷部の言う【非常に簡潔に】との響きは、前島商事を取引先にする企業には驚異のはずだ。
怜悧な敏腕秘書は、穏やかだが手厳しい一面を持っている。実は尚嗣よりも冷酷だろう。

「どの道、企業としても個人としても生き残れるわけがない。信頼の失墜は何にも勝る大損害だからな」
「白沢工業の常務の娘には、散々痛い目に遭わされ続けて来ましたからね。許せる限界を越えてます」
「榛マシナリーとの拡張を計画するぞ」
「指示はしてあります。週明けの営業会議には先方にも来て頂けます」
「流石だな、長谷部」
「恐悦至極」

恭しく腰を折ってみせる長谷部に、尚嗣は満足げに笑った。

「尚嗣お兄ちゃん、勇矢お兄ちゃん」
「アイス溶けちゃう~」

二人の前に百合がカップのアイスを差し出して、啓太がコーヒーを淹れて来た。

「ありがとう」
「では頂きましょうか」

二人も思わず表情を緩める。啓太と百合について…長谷部はこの短時間で、その健気さを理解していた。

絢女あっての二人に、尚嗣が絆されて可愛がってしまうのも無理はない。
ゆっくりとエスプレッソのアイスと絢女直伝のコーヒーを味わうと、神崎家の荷を積んでいた引っ越し業者に指示をして、尚嗣のマンションに運ばせた。
使わずに空いていた三部屋は、啓太と百合と絢女の父の部屋に変わった。絢女は尚嗣と同じ部屋に決められた。

翌日には住所変更に転居届けを出したり、部屋の片付けや足りないモノを買い出したりと忙しない一日だった。
日曜には尚嗣は初めて絢女の父を見舞った。引っ越しに際しては包み隠さず全てを話し、絢女との将来についての許しを得た。
驚いていた絢女の父だったが、啓太や百合が懐いている事と、何より絢女が連れてきた相手と言う事もあり、渋ったり反対する事もなく、尚嗣に娘をよろしくと告げてくれた――。