「送りますよ」

よろり、と千代がコンビニの駐車場から歩道へ出ようとしたところで、アビゲールの体がふわりと浮いた。
見れば、臣がアビゲールの細い体を抱きかかえている。そしてその隣には、志摩。
送りますよ、は志摩の声か。
「私達ももう帰ろうと思ってたところなんですよ。彼の煙草が切れて、ここに寄っただけですから。お宅、すぐそこでしょう?」
えっ、なんでうち知ってるの?
とは口にできなかった。
(アビゲール、ずるすぎる……)
臣に、まるで子供のように抱えられているアビゲールが羨ましすぎて困った。身長180センチのアビゲールが、華奢で小さく可愛く見える。
臣はそれくらい、大きくて逞しかった。
「……すぐそこまでの道のりを車で行くのも野暮でしょ。臣さん、千代嬢をお宅まで送ってさしあげてください」
うっとりするような笑みを浮かべた志摩に、臣の肩が少しだけ竦む。
「きっちり送り届けてさしあげるんですよ。その馬鹿女はドブにでも捨ててかまわねーから」
最後の一言は千代に届かないようにぼそっと呟かれた。
それに溜め息をついて頷いた臣が、千代を見る。
「あ、え、……いいんですか?」
思わず臣ではなく志摩に尋ねてしまった。だって、どうせ喋ってくれないし。
千代はちょっとやさぐれた。
「かまいませんよ。彼が自らお手伝いしたいみたいですから」
そう言った志摩を、臣がものすごい勢いで睨みつけている。自分以外に向けられていても怖い眼光なんて早々お眼にかかれないのではあるまいか。
そんなことも、今の千代にはあまり気にならないことだった。
何故なら暖を求めたアビゲールが、臣のコートから覗く胸元に擦り寄ったからだ。ん、という色っぽい声つきで。さっきまで寝言と鼾と涎を垂らしていたとは思えない妖艶さである。
不美人な自分が、このといほど憎らしかったことはない。
そうして気付けば、とぼとぼ臣とふたりで(癪なので、眠っているアビゲールはカウントしない)帰路を歩いていた。

なんだこのチャンス。いや、チャンスってなんだ。
平静な顔でぐるぐる考えながら、千代は隣を歩く臣を見上げる。そうすると、抱っこされている美しいアビゲールまで視界に入り込んで、千代はすぐさま視線を外した。
(アビゲール、ずるすぎる。今度泥酔して道端で眠っても助けてやらん)
アビゲールにしてみれば理不尽な話だが、泥酔して道端で爆睡して警察の皆さんにお世話になるのは彼女の悪い習慣なので、千代を責めるものもいまい。

家まであとちょっとだ。
そこの曲がり角を曲がって数メートル進めば、ぼろぼろになった雨どいが見えてくる。
そこで気付いた。
臣の歩調が、千代に合わせられていることを。
千代は、例え背伸びしたとしても、臣の胸の位置にしか届かない。コンパスが違いすぎるため、普通に歩けば千代はあっさり置いていかれるだろう。
アビゲールを抱えていると考えても、臣の歩調は妙にゆっくりとしていた。
(臣さんもずるいな……)
だからそういう優しさって、無口な人がするとほんと強烈なんでやめてほしいんですよね。
との気持ちもこめて、千代は歩調を速めた。
それに気付いた臣が、歩調は変えず、歩幅を大幅に大きくする。

「……あの、臣さん」
臣を少し後ろに配し、千代はぼんやりと霞む月を見上げた。臣からは相槌も返事もないが、鼻から期待していないので話を続ける。
「覚えてないかもしれませんけど、私、一度、居酒屋以外で臣さんに会ったことあるんですよ」
ぴくり、と臣が反応した気配を、静かな空気が千代に教える。
「……私、あの時、すごく嬉しかったんです。助けられました。臣さんのお陰で、私、前向きになれました」
マンホールを踏みつけて、角を曲がる。たまに通り過ぎるサラリーマンのおっちゃんが、巨大熊のような臣を興味深そうに眺めていく。
それきり、千代は黙った。
臣もいつものように何も語らず、黙ってついてくる。
曲がり角を曲がる。
アビゲールが、このくそじじい歯磨きしろ、と寝言を洩らす。
三歩、五歩、八歩、十二歩……千代がくしゃみをする。
十八歩……到着。
千代がたてつけの悪い玄関を開けて、臣がアビゲールをそっと横たえた。

「ありがとうございます」

そのまま黙って出て行ってしまいそうな臣の背中に、千代は笑みを向けた。
臣が、ゆっくりと千代を振り返る。

「ずっと、言いたかったの」

彼が覚えているかいないかは問題ではなかった。彼に助けられたということが、千代にとっては大切なことだった。
臣が、その巨体で千代を見下ろしている。
もともと小さな玄関口が、更に小さくなってしまったように思える。
立て付けの悪い戸が、がたがたと風に鳴った。
「……」
臣は黙ったまま、千代の前髪をそっと撫でた。冷たい。
千代は固まった。
そんな千代に臣は小さく笑うと、さっと狼のように身を翻して行ってしまった。
グレーのコートが、暗くない夜に溶けていく。
固まった千代は、コートの裾が曲がり角に消えるまで、じっと見ていた。
おやすみもすきもいえない、情けない夜だった。



「だーかーらー、絶対そのままヤッてくると思って撤収したんですってば」
志摩は携帯電話を片手に、運転手の海江田に引き返すよう指示を出した。
窓の外はまだ眠らない繁華街。クリスマスでもないのに派手なLEDが溢れかえっている。
「送り狼になれよって激励したつもりだったんですけどねえ。見ました?千代嬢の顔。かわいーったら。あんな泥酔女にヤキモチ妬くなんて」
ほんと、一般人丸出しの、素朴な女性ですよねえ。
言葉にできないそれが、志摩をほんの少しだけ、虚しくさせたりする。
「……ええ、ええ、わかってますよ。こちらから余計なことは一切いたしませんから。あとは若がはっきりすりゃあいいだけでしょ。嬢の膜突き破ってオンナにしてイロ(情人)にすんのも、若にしてみりゃ簡単でしょーが」
思わず苦い笑みがこぼれた。
いつの間にか老けた己の顔が、過ぎていく景色に置いていかれる。

「……わかってますよ。あんたが嬢を逃す気がないのも。そのためにじわじわ地盤固めてんのも。あんたは怖いお人だ。かわいいあの子が自分からあんたの腕ン中に墜ちてくるのを、煙草ふかして待ってやがる」

おおこわい。
志摩は歪んだ口端に、愉悦の皺を刻んだ。


予断だが、アビゲールは色白美人である。
フィリピン出身のかわい子ちゃん達がみんな色黒だとおもうなよ。