「うわ」
入り口を入ってすぐのエスカレーターを上ると、すぐに大水槽が現れた。メインの魚たちを邪魔しない程度にちかちかと星のようにささやかな電球が天井に飾られ、きらきらと輝いている。
通常より照明が落とされているのか、水槽の青と天井の空が迫るようで、千代は臣の存在も忘れて暫しぽかんと間抜け面をさらして魅入っってしまった。
深海に下りて、満点の夜空を見上げているような気分。
客は、水槽を眺めながらうっとりしているカップルがほぼ大半を占めていた。大水槽と向かい合う壁には椅子が設置されていて、そこに座って寛ぐこともできる。平日の夕方だからか、混雑しているというほどでもなかった。
臣は水槽を凝視したまま動かない千代の手をさりげなくとると、その席へ誘導した。水槽からは離れてしまうが、そのぶん全体が視界に入って圧巻である。
お互いの肩が触れ合いそうなほど近い位置で腰掛けて、ふたりは暫し、無言で水槽を眺めていた。
ゆらゆらと揺れる水の陰影が暗い床を蠢かせて、ひどく幻想的だった。
「……臣さん、すごいね。すっごく綺麗だね」
ジンベイザメがゆったりと臣の視界を横切ったとき、千代が口を開いた。
妙に静かな空間で、青い水に照らされた千代の横顔を臣は眺める。
すっと伸びた鼻筋が可愛い。細いが長い睫毛がかわいい。小さな口が可愛い。うっとりと細められた眼がかわいい。
臣の頭の中は、水槽より千代のことでいっぱいだった。
「臣さん」
千代が水槽から視線を外して、隣の臣を見る。
大きな体を見上げるように首を傾げると、臣の真っ黒い瞳とぱちりと視線が合った。
(……臣さんだ)
本当に、臣がいま、自分の隣にいる。
(ゆめみたい)
ドキドキしている。それなのにどこかひんやりとした空気に当てられて、言葉が出てこない。
水槽を眺めているときと同じようにうっとりとした視線を向けて、千代はただ、臣を見つめていた。
臣はいつもと変わらないスーツ姿にロングコートのいでたちで、実はかなり周囲から浮いている。とはいえ、美しい水槽にすぐに意識を向ける客たちの視線はそこまで煩わしくない。だから千代は、思う存分、臣の姿を堪能した。
臣の顔が、不意に落ちてきた。
鼻先が触れ合った瞬間、千代ははっと我に返る。
「っ」
驚きのあまり、ぱっと顔を反らしてしまって猛烈に後悔した。
(拒否したみたいになった!拒否したみたいになった!)
いま、臣はキスをしようとしていたのではなかろうか。
それを今自分は、顔を背けて拒絶した(ようなかたちになった)!
(……どうしようどうしよう、アビゲール、カレン、どうしよう!)
恋愛初心者の千代の頭の中はパニックだった。
キスをかわされた臣は暫し逡巡すると、椅子に置かれた千代の手を握った。
「!」
飲食店のアルバイトで荒れた手が大きすぎる手に包まれて、千代の肩がびくりと跳ねる。
恐る恐るその手を握り返すと、臣もぎゅっと力を込めてくれた。
(……うれしい)
お互いに冷えた手が触れ合ったところから徐々に温かくなっていく。
互いに互いの手のぬくもりが心地よくて、言葉もなく、ゆらゆらとたゆたう水槽を見つめていた。
ピリリリリ……。
どれくらいそうしていたかわからない。
臣の携帯電話が鳴って、繋いでいた手はごく自然に離れてしまった。
大水槽の間から通路に出て電話を取る臣の姿を遠めに見ながら、千代は繋いだ手をじっと見つめた。
繋いでいる間は、ひとつの手のように感じていたのに。
(離れちゃうと、やっぱり別々の手だな)
それが寂しいような、そうじゃなきゃくっつけないしな、と嬉しいような、妙な気持ちだった。
通路にもう一度目をやると、臣の姿は壁に隠れて見えなくなっていた。
(仕事かな)
もしかしたら緊急の用事で、このまま帰ることになるかもしれない。
臣の「仕事」がどんな内容なのか見当もつかないが、楽観視もしていられないだろうな、とは思う。
(だって臣さん、ヤクザだし)
千代には、その職業へ対する嫌悪感はない。今まで直接的な被害をこうむってこなかったこともあるが、祖父の友人にその筋の人がひとりいて、その人の人柄がよかったことも要因かもしれない。
世間一般に褒められる職業ではないのは承知だが、千代にとってそれが臣と距離を置く理由にならなかっただけだ。
(でも、明さんみたいな人を産む)
そういう「仕事」なのだと、今は何も知らないから割り切っていられる。
けれどもし知ったら――?
(臣さんの仕事を目の当たりにして、私は)
見つめていた手をぎゅっと握る。
(……いいや、まだ、そのときのことは)
今悩んでは、この幸せな時間に水を差すようなものだ。
そのときのことは、そのとき考えよう。
そのときにはなにもかも遅くても、いまは、まだ。
臣はすぐに帰ってきた。
暗い照明の下だと、全身黒尽くめの臣は死神のように見える。
けれどその死神を選んだのは千代だ。
嬉しそうに臣を見上げた千代の頭を、大きな手が優しく撫でつけてくれる。
そうしてふたりは大水槽を満喫すると、やっと他の水槽を回ることにした。
そうして全ての水槽を回り終って、近くのレストランで食事を済ませたころには日付が変わっていた。
ここまで長く一緒にいたことなどなかったので、緊張しっぱなしではあったが、充実したひと時だった。
臣は臣で、満足げに千代の隣で一服している。
馴れたセブンスターの香りが、千代の胸をころころと擽る。
(……でも、まだあんまり話してくれないんだな)
付き合い始めたからといって、すぐに臣がぺらぺら喋りだすとは思っていなかった。
なのであまり期待もしていなかったが、ここまで無言を貫かれるとちょっと困る。
水族館では千代が一方的に話して、臣がそれに表情筋で応える。
レストランも臣に連れて行かれるまま連れて行かれて、オーダーはメニューを指差しながら決めた。支払いも臣で、千代は1円も払わせてもらえなかった。
そして今、レストランの駐車場で臣は車に凭れて煙草を吹かしている。
堤防越しに見える海をそれをぼんやりと眺めながら、千代はセブンスターを嗅いでいた。
(志摩さんと一緒でも、臣さんは話さないもんな。志摩さんがいつも臣さんの意思を読み取って代弁してる感じだし……全然話さないわけじゃないけど、無口なのが臣さん)
となると、千代も頑張って臣の意思を読み取れるようにならなくてはならない。
状況によっては視線でなんとなく言いたいことはわかるが、それが曖昧な気持ち的なものになると、きっと千代には判断がつかない。
(……もし喧嘩したとき、臣さんがなにも話さなかったら)
志摩を挟んでの言い合いになるのだろうか。
(なんかそれいやだ……)
思わずぐったりしてしまった。
冷え切った潮風に鼻を啜ると、煙草を消した臣が千代の背後からコートで包んでくれた。
いきなり縮まった距離に、志摩のことなど吹っ飛んで心臓が跳ね上がる。
大きなコートにすっぽりとおさまって、千代は恥ずかしさのあまり俯く。
そのうなじに、臣が唇とつけようと屈んだときだった。
「千代嬢、後ろ、狙われてますよ」
聞き覚えのある声に、千代はびくっと肩をそびやかした。
コートの隙間から顔を覗かせると、そこには麗しのロマンスグレーが立っていた。
後ろにくっついている臣から、邪悪なオーラが噴き出す。
「なんですか若。邪魔すんなって言われても、俺だって仕事なんですよ。俺を恨むのはお門違いでしょ」
志摩の後ろには、ジャージの須藤も立っている。
(あ、やっぱり仕事……)
ギャラリーが増えたことに堪えられず、千代は臣のコートからさっと飛び出した。
それを名残惜しげに臣が見ていることには、気付かない。
「すみませんね、千代嬢。ここからは俺と須藤が家まで送りますから。……若はこれからちょっと、千代嬢の家とは反対方向で仕事がありまして」
志摩が穏やかな笑みを浮かべて、千代に謝罪する。
あまり心のこもっていない謝罪だった。
仕事優先。あんたはさっさと家に帰って休みなさいと言われているようで、千代はうまく笑顔が作れなくなってしまった。
(……おとなげないな)
理性と感情は別物だ。
困ったことに、千代はまだ臣と離れたくなかった。
(……そんなこと、言えるわけないし)
こんなところで馬鹿正直にそんなことを言おうものなら、わがまま女のレッテルを貼られてしまう。それはいやだ。なにより、臣にそう思われたくない。
(でも、それなら、電話があったときに、言ってくれたらよかったのに)
唐突に訪れたデートの終わり。
千代は志摩の言葉に素直に頷いたが、臣の顔を見ることができなかった。
(もう一回、手、繋ぎたかった)
ふたりきりなら、きっと言えた。
しかし今、志摩と須藤の目がある。さすがにふたりの前で、そんなことできない。
「……それじゃ、若、千代嬢はしっかり俺が送り届けますんで」
志摩の言葉に、臣もこっくりと頷く。
須藤が車のドアを開けてくれたが、千代は乗り込むのに躊躇した。
(やだな、せめて、今日のお礼……)
ぐるぐると悩んでいる暇があるなら、実行すればいいのに。
千代は自分の叱咤に押されるように、臣を振り返った。
「臣さん、今日、すごく楽しかったです。ありがとうございます」
ぺこり、と頭を下げる。
志摩と須藤がいなければ、もう少し砕けた感じで、もうちょっと甘えたかんじでいえたかもしれない。が、仕方ない。
「おやすみなさい」
言って、さっと車に乗り込んだ。
臣はどうせなにかを言うわけでもないだろうし、いいや、と半ば自暴自棄になって座席のクッションに身を預ける。
千代が一息吐く間もなく、無情にも車のドアはぱたん、と閉まってしまった。
――また、一緒におでかけしましょう。
いえなかった。一番言いたかった言葉なのに、言えなかった。
臣は今日一日、楽しんでくれているようだった。でも、はっきりした言葉がないから、憶測でしかない。
なにより、志摩が「若」と呼ぶ相手に、そのようなことを言って厚かましいと思われないかとすら、考えてしまった。
卑屈だ。考えすぎ。ばかじゃないの。
(……臣さんは、私とまた、デートしたいって、思ってくれたかな)
自分と同じように。
スモークのかかった窓ガラスの向こう側で、臣と志摩、そして須藤が何事かを話している様子が窺える。
そこには自分の居場所など少しもなくて、千代は寒さとは違う意味で、すんと鼻を啜ってしまった。