「頭、お疲れさんでした」
その車の前に控えていた数人のうちの一人が、音もなく臣に近付いてきた。
千代が臣に抱かれながらそちらを見ると、一昔前のヤクザのテンプレートのような男が立っていた。
額から鼻筋にかけて、一本の傷跡が走っているスキンヘッド。しかも着ているスーツは暗めではあるが紫だ。ぎらぎらと建物内からのかすかな光に照らされているネクタイは、ネオンイエロー。
「姉さんは無事でしたか」
傷の男は千代を見ると、その相好を崩した。
「あ、……ありがとうございます」
この男はじめ、背後に控える数人が千代のためにここにいることは明白だ。
千代は臣の腕の中で小さく身じろぎして男の正面を見据えると、頭を下げた。
「いえ、元はといえばとばっちり喰らったのは姉さんでしょう。無事でよかった」
男の年齢ははっきりとはわからなかったが、落ち着いた雰囲気が志摩を髣髴とさせる。
真正面から無事でよかったと安堵されて、千代は嬉しさに頬が緩んだ。
それを認めた臣は、少し面白くない。
「撤収」
男に短くそう告げると、停めてあったレクサスに千代を抱いたまま乗り込んだ。
「頭、撃たれましたか」
運転席から顔を覗かせた海江田が、臣を見る。
座席に壊れ物のように座らされた千代は、その言葉にはっとした。
「そうだ、臣さん、体――」
助け出された安心感が一気に吹き飛んだ。
普通車よりは広い車内で、千代は半ば臣に掴みかかるように手を伸ばす。
コートの裾を左右に開くように握った千代の手にたじろいだように、臣は車外に飛び出した。
「!?」
拒絶?
千代は更に青ざめたが、臣は焦ったように首を振って、小さく呟いた。
「いい」
なにが?
とは千代は聞き返せなかった。
(臣さんの声……)
さっきも聞いたが、さっきとは違う。
あれは明に向けられた声で、今のは千代に向けられた言葉だ。たった二文字だったが。
喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからない。
千代の顔を見つめながら、臣は徐にコートとスーツのジャケットを脱いだ。寒空の下、白いシャツまで脱ぐと、まるで映画に出てくる海外の兵隊のような体が姿を現す。
その太く逞しい胴体に、黒い防弾チョッキが着せられていた。
その上からでも臣の洗練された肉体のラインがわかり、千代は目を瞠る。
臣は無言でそれを脱ぐ。
その動作すら流れるようで、千代は意味もわからずごくりと喉を鳴らした。
「若、骨はいきましたか」
いつの間にか現れた志摩が、臣が脱いだ防弾チョッキを受け取ってそう言った。
「……着てても、怪我するの?」
思わず、千代は情けない声で尋ねていた。車外に立つ臣と志摩の顔が同時に千代を見る。
「まあ、当たりどころが悪ければ骨の数本はいきますね。運が悪ければ死にます。ライフルなんかつかわれたら、このタイプなんて紙みたいに突き抜けちまいますし」
大真面目に応えた志摩の言葉を聞いて千代が青ざめた瞬間、志摩の体が吹っ飛んだ。臣が容赦なく蹴ったのである。千代の顔色は益々ひどくなった。
「……って不安にさせてすいやせん。若のはわき腹ぎりぎりだったんで、衝撃はあったでしょうが怪我っていうほどのもんはしてやせん。うちの若は頑丈ですから」
地面に転がったままの志摩が付け加えた。
その言葉にあからさまにほっとする。
「臣さん、怪我しなくてよかった。……ありがとうございます」
何度目かわからない礼を告げると、臣は何故か苦しそうな表情を浮かべてしまった。
(あれ、なにか間違えた?)
ここは礼ではなく、思い切って告白したほうがよかっただろうか。
「千代嬢、若はね、巻き込んで悪かった、と言ってるんですよ」
言葉ではなく眼で語る臣と、あさっての方向に考えを飛ばす千代に、すかさず志摩のフォローが入る。
千代は志摩の言葉を反芻すると、黙ったまま千代を舐めるように見ている臣を仰ぎ見た。
「……臣さん、ちょっと」
そう言って車内に入るよう手で招き寄せると、臣は吸い寄せられるようにレクサスに乗り込んできた。臣の重みで、頑丈な車体が少し沈む。
「内緒話ですかい?ドア閉めますけど、若、ちゃんと自重してくださいよ」
後半の言葉を臣にしっかり言い聞かせると、志摩は丁寧にドアを閉めた。
薄暗い車内で、千代は目の前の巨体を見上げる。
頭が天井すれすれだ。窮屈そうだが、なんだかそのサマすら可愛く見える。
そんな可愛い巨体を見つめながら、千代は暫し考えてから口を開いた。
「……臣さん、臣さんはヤクザなの?」
超直球。
ヤクザにヤクザですか?と尋ねるのは憚られるものだろうが、今の千代にそういった体面を構っている余裕はなかった。
臣は戸惑うように小さく視線を巡らせると、小さく頷いた。ような気がした。
「……私、映画で見るようなヤクザしか知らない。……ていうか、よくわからない」
いざヤクザですといわれても、すんなりとああそうなんですね、とはいかない。
明に対するあの場慣れした感は千代から見ても素人ではなかったし、銃だって持っていた。だがしかし、アビゲールを迎えにいった帰りの、あの前髪を撫でる優しい指だとか、静かな夜を背負う小さな笑みだとか、そういったものを持つ臣と、ヤクザの臣がどうしても千代の中で一致しない。
(無理矢理舌を突っ込まれたのは、まあどっちかというとヤーさん寄りだったかもしれないけど)
臣があえて千代には違う顔を見せていたのか、或いはどちらも臣なのか。
「……わたし、臣さんが好きだよ」
二度目の直球発言。しかし臣の表情に、特に変化はなかった。
それを気付いて、ああ失敗したかな、と思ってもあとの祭り。
自然に口をついて出たのだから、千代の中ではもう限界だったのかもしれない。
「ヤクザって言われても、気持ちは変わらなかったよ」
言っても迷惑なだけだったかもしれない。ただ、ここで一区切りだと思ったのだ。
臣の職業によって誘拐され、巻き込まれ、救出された。
臣がただの一般人なら、このままもっとのんびりと関係を築いていくのも可能だったかもしれない。しかし臣はそうじゃない。一般的には関わりたくないような職業についている。
そして今、そのことが判明した。
もし臣に千代と必要以上に関わる意思がないのなら、このまま千代からフェードアウトすべきだと思った。
今後も、千代にも臣にも不利なことがあるかもしれない。
きっとヤクザとは、そういう職業だ。
(でも私は、臣さんが望むなら)
傍にいたい。
恋人と呼んでくれるなら、嬉しい。
そんな思いを込めて、千代は言葉を紡ぐ。
「……臣さんは?」
少なからず、嫌われてはいないのではないかとの打算を込めて。
(臣さんは、シイナさんが言ったようなことを他人にべらべら話すような人じゃない)
中傷を口にするより、そのまま関わらないように距離をとるような人だと、千代はなんとなくだが知っている。
「……私は、臣さんが好きだよ」
だからもう一度、同じ言葉を繰り返した。
短く単純な言葉に、万感の想いをこめて。
「……」
臣は無言だった。
答えを促すように、千代は臣を見つめた。
眼つきの悪い、眉に傷がある顔をじっと見ていると、やがて臣は躊躇ったように口許に手をやった。なにかを言いあぐねているようにも、臭いをシャットアウトするようにも見えるそれ――。
「あ、やっぱり臭いかな、ごめんなさい。外出るね」
逃げた。
千代は乗り心地のいい座席の上で方向転換すると、臣とは正反対のドアを開けた。
いや、開けようとした。
「うわっ」
ドアを開けて車から降りようとした千代を、臣の片腕が乱暴ともいえる性急さで引きとめた。力任せに後ろに引き寄せられて、千代はバランスを崩して臣の上に後ろから倒れこむ。
硬い太ももを後頭部に感じて目を開けると、臣がじっと千代を覗きこんでいた。
真っ黒の瞳に逆さに覗き込まれて、千代は言葉を失う。
(こうしていると、熊はわたしのほうだな……)
臣のような本物の熊じゃなくて、無力なぬいぐるみの熊。
大きな腕に抱きこまれて、黒い目に見つめられて、身動きひとつできない。
「……傍に」
ぽつり、と零された言葉は千代の息をとめた。
「お前がいい」
そして低く熱っぽいそれに、次には溺れた。
千代がなにかを言う前に、臣の大きな体が落ちてくる。
逆さにくっついた唇はどこか不恰好だったが、ひどく優しかった。
あの夜の、まるで壊れ物を扱うように千代の髪に触れた、臆病な指のようだった。
だから千代は両腕を持ち上げて、臣の両頬を包んだ。
冷たいかと思ったらとんでもなく熱くて、まさか、臣が照れているなんて思いもしなくて。
嬉しくて嬉しくて、持ち上げた腕に力を込めて、もっともっとと引き寄せた。
「すき」
キスの合間に千代が吐き出した想いを、臣はごくりと飲み込んだ。



そんな車の外では、若の恋の成就の邪魔はせん(したら恐らく半殺し)と、律儀にもヤクザ数名が煙草を吹かして寒空の下、待っていた。

「いいなあ、俺も彼女ほしいなあ」
「んだよ、お前また振られたのか。ジャージばっか着てるからだろ」
「ジャージはジャージでも、俺のはレアジャージなんすよ!」
「うるせえ。毎日毎日同じもん着やがって。洗濯してんのかてめえ」
「毎日毎日ちゃんと洗濯して違うジャージ着てますから!残念!」
「てめー古いからもてねえんじゃねえの」



残念のひと、ごめんなさい。