「こんばんはぁ。千代さんはいらっしゃいますか?」
「……千代は私ですが」
千代が答えると、男は更ににっこりと笑った。
三日月の目が妙に白々しくて、千代はもっと距離を置こうと足を引く。
「実は臣さんのことでお話がありまして」
「臣さん!?」
それを見越したかのような言葉だったが、千代は思わぬ単語に飛びつくように反応してしまった。
数歩分開いていた距離は千代から詰めて、背の低い男が手を伸ばせば簡単に届く位置まで来てしまった。
それを見た男が、にいと唇まで三日月にする。
「今すぐ千代って女を連れてこいって話でしてね。あんたがいい餌になるからって」
え。
疑問の声をあげる前に、千代の腕は男に引っ張られていた。
高い土間から飛ぶように離れた千代の体を、控えていた男ふたりが荷物のように抱え上げる。すかさず背の低い男が千代の口にハンカチを詰め込み、鼻を塞いだ。声どころか唸り声すら上げられない。
そのまま抱えられて外に連れ出されると、千代は玄関前に停められていた黒いバンの中に投げ込まれた。外に控えていた男たちは周囲からの目隠しの役割をしていたらしい。千代の後に、それぞれも乗り込んですぐさま車は動きだした。
「イブなのにごめんね」
背の低い男が、助手席からにっこりと千代を振り返る。
男達に抱えられるように乗せられた千代は、自分の顔から血の気が引くのが解る。
(なに、なに、なに、これ)
全員、若い男だった。服装も今時だが、こんな真似をしている時点で一般人じゃない。
馴れた手つきで、震える千代の体をビニールテープで縛っていく。
(私、誘拐されたの?)
背の低い男は、確かに〝臣〟と口にした。
(臣さんの知りあい……が、こんな真似するわけない)
ではこいつらはなんだ。
何故、自分は今誘拐されている。
「ねえねえ、明さん。いい?」
千代のジーンズに包まれた尻を撫でまわす一番若そうな男が、助手席の男に声をかけた。
その手つきがあからさますぎて、千代は全身の皮膚に鳥肌を立てた。
「だめだっつってんだろ。下手に傷付けると交渉に不利だかんな」
「えー、やりたいー。あのサイボーグ野郎の女なんでしょ?どんなテク持ってんのか超気になるー」
明と呼ばれた男の言葉に、若い男は不満げに唇を尖らせている。
「わざわざ明さんが出てきたから、皆でやっちゃうつもりなのかと思ってたー」
「ちげーよ。お前みてえな節操なし見張るためだっつの」
けらけらと明が笑うと他の数人も笑ったが、玄関に入ってきていたふたりだけはやはり無表情のままだ。
「……でも、あの臣の女があんなボロ家に住んでるっておかしくないすか」
無表情その一が、千代をじっと見ながら言う。
「臣ほどのヤクザなら、女に家のひとつやふたつ与えて囲むもんじゃないんすか」
無表情その二が、やはり千代をじっと見て言った。
(やくざ……)
この現状に混乱する千代の耳に、唯一の単語が滑りこんでくる。
(臣さんが、やくざ……)
それはつまり、彼らもヤクザということだろうか。
(巻き込まれた……?)
しかも勘違いされている。
自分は、臣の女じゃない。
「詳しいことは俺もしらねーよ。その女が臣のだって報告入れたのお前らだろ。……ま、違ったら違ったでお楽しみが待ってんぞ」
明が言うと、乗っていた全員がどっと盛り上がった。
その笑い方があまりにも下劣で、千代はがたがたと震える体を抑えられない。
そんな千代を見て、三日月がにいやりと笑っていた。




臣はまたもや近藤組組長本宅を訪れていた。
この家にくることは一年を通しても滅多にないのだが、年末が近付くと頻度は増える。
正月の年越しパーティーもそうだが、多恵が本妻になってからクリスマスパーティーというイベントが増えたせいだ。多恵にめっきり弱い宇佐美と、入ったばかりの若い衆を盛り上げるために毎年開催されるようになった。腐っても幹部として、顔出しくらいはしておかなければならない。
「若もついてませんねえ。今日は千代嬢誘って仲直りしてホテルにしけこむはずだったのに」
長い縁側を歩く臣の後を、いつものように志摩が一言余計についてくる。
臣はそれを無視して、もくもくと会場となっている奥の広間へと向かっていた。結構な構成員が集まっているらしく、先ほどから笑い声や怒鳴り声が絶えない。たまに皿やガラスが割れる音もするが、それもいつものことだった。たまに通り過ぎる部下や子分に頭を下げられながら、会場へと歩調を早める。
格式ばった正月の宴とは違い、クリスマスイブのこれは多恵主催の乱痴気パーティーだ。宇佐美がサンタクロースに扮して、弟分への小遣い遣り、更には部下同士でのプレゼント交換まであるのだから笑える。
なので、宇佐美と多恵に挨拶して一応参加したという事実を引っさげてさっさと帰る気でいた。
「ごんぶとに連絡入れたら千代嬢も休みだって言うじゃないですか。今日がチャンスですよ、若」
志摩は朝からこんな調子である。
前回の千代への失態を自分でも反省しているらしく、とにかくふたりがくっつけば問題解決とばかりに臣の背中を押してくる。正直妙に構われてうざったいのだが、言って聞く相手でもない。
「……っと、噂をすりゃあ、千代嬢と同居してやがるカレンから電話だ」
志摩が立ち止まった気配を受けて、臣も立ち止まった。柱に寄りかかり、懐からセブンスターを取り出す。
「……ああ?てめえなに訳わかんねえ言葉使ってんだよ。日本語喋れフィリピン女ァ。……んだよ、若ならここにいっぞ。つーかお前ごときが若に――なんだって?」
志摩の声に耳を傾けながら、安っぽいライターで火をつけた。
冬の冷え切った空気に、火をつけられた煙草の先がじっと鳴いた。
なんとはなしに目の前に広がる日本庭園を見やり、志摩を待つ。
「てめえ、落ち着けよ。もう一回ちゃんと言え。千代嬢がどうしたって?」
紫煙を肺まで吸い込んで吐き出したところで、志摩の声色が変わる。
そして志摩の口から飛び出した無視できないキーワードに、臣は庭園から志摩へと視線を向けた。志摩も眉間に皺を寄せた顔で、臣を見ている。
「……男?千代嬢が対応して、それでどうした?」
志摩が持つ携帯電話の通話口から、パニックになったカレンとアビゲールの悲鳴のような声が聞こえてきた。
臣は無意識に、志摩の手から携帯電話を奪い取って耳に当てていた。
『――わからないよ!チヨが玄関から帰ってくるの遅いから見に行ったら、玄関開きっぱなしで、チヨも男もどこにもいなかったんだヨ!チヨの靴もゼンブあるし、おかしいよ!』
臣は携帯電話を志摩に投げて返すと、今来た縁側を駆け足で引き返していった。