病室のドアが三回軽くノックの音が響いた後に開かれる。
菜月はベットで座ったまま外を眺めている。
正確には外の景色などは見ていない、ただ身体の湾曲が、継続的な座位によって固まりつつある筋肉を無意識に引き伸ばすことによって外を眺めている様に身体がそちらを向いているに過ぎなかった。
「菜月くん今晩は」
東谷は意識的に菜月の身体が向いていた方の椅子に腰かけながら、そう挨拶をした。
返事はない。
「だいぶ顔色が良くなってきたね。
この調子ならすぐに普段の生活に戻る準備が出来そうだ」
東谷の柔らかなトーンの声は、まるで菜月には届いていないかのように病室に飲み込まれていく。
返事のない問答がしばらく続いていく。
「今日は想次郎くん、お兄さんが来てくれていたね。
ゆっくりと話せたかい?」
その言葉に菜月はわずかに瞳を揺らした。
「そう。
それは嬉しかったね」
東谷は手に持っていたカルテに何かを書き加えていく。
紙の上をシャーペンの芯が軽快に滑る音だけが無機質な病室に響いていた。
「また、誰か……私の……から、………として、……たの」
はっきりとしない口唇の開閉。
消え入るような呟きは言葉として東谷に届きはしなかった。
東谷は少し潤んだ菜月の目を見て「そう、つらかったね」とただ一言言う。
「喋るのは辛いね。君の負ってしまった心の傷はそうそう消えてくれるものではない。
思考はその恐怖と不安に掻き乱され、理解を求めて言語化するのにもとてつもなく大きな抵抗があり、労力を使う」
東谷は落ち着いた声でほっきりと、ゆっくりな口調でより自然と菜月の鼓膜に届くように続ける。
「しかし治療のキーとなるのはやはり言語化による自分自身の中でのトラウマ的出来事の消去と、他者による理解があることを実感して心を落ち着かせることにあるのも事実。
カウンセラーと言えどただの人間。菜月くん自身にはなれないし、肉親でもなければ神様でもない。
とても辛い作業ではあるが、カウンセリングの成功にはクライエントとカウンセラーの努力が必要になる。一緒に頑張ろう」
そう言い終えてから二秒ほど東谷は菜月の瞳を見つめていた。
そして反応のない菜月に笑顔と大きな頷きをしてから椅子から立ち上がる。
「今日はこのくらいにしておこう。
ゆっくりお休み」
病室のドアが開いて静かに閉められた。
無音の中で耳を障る電子音にも似た雑音が目の前で響いていた。