「え、頭が……」



朝ごはんを食べ、雨が降りそうな曇天を窓から見上げているとき、その知らせはわたしの耳に入って来た。





庭師の仕事をする前に一度だけ会った頭。

その頭の容態がよくないらしい。

実は、ケヴィさんをわたしの指導役として指名したあと、倒れたのだそうだ。

ちょうど通りかかった診療室の先生が頭を発見して事なきは得たけど、そのあとはずっと診療室のベッドで寝ていたらしい。


だから仕事をしているとき、全然会わなかったんだ。

いつも持ち場がかぶらないから会わないのかなーとかって思っていたけど、そんなことになっていたとは……


本人の意志で秘密にされていたけど、とうとう限界が近づいてしまったようだ。

命の、限界が。



頭の歳は知らないけれど、でもかなりの高齢に違いない。杖をついていたし、夜中もふらふらとした足取りで歩いていた。


まだあまり面識は濃くないけれど、ケヴィさんにとって、カイルさんやアルさんにとって大切な人。



その人は今、発作を起こして気を失っている。





「カイルさん!行きましょう地下に」

「なぜだ。ただの体調不良だろ?」

「アルさん!お見舞いに行きましょう!」

「うーん、行きたいのは山々だけど、生憎忙しくてね……」

「なんで行かないんですか!」





わたしは二人にお見舞いに行くようにさっきから促しているんだけど、まったく聞く耳を持ってくれない。


……胸騒ぎがさっきよりも強い。


ものすごく嫌な予感しかしない。

その予感は、頭ともう二度と会えないんじゃないかっていう不安。



ケヴィさんも今日は仕事を休んで付きっきりで頭の面倒を見ているそうだ。

それほど、頭は弱っている。




「なぜかだと?俺の立場でものを言ってみろ。戦争が近いこの時期にふらふらと出歩けると思っているのか」

「僕も、主君がそんな感じだからそばを離れられないんだよねー」

「そうですか……わかりました。シリウスとハリーの主はこんなにだらしなかったんですね。後で二人に言っておきます」




なぜ愛馬の名前が出るんだ?とでも言うかのように二人は書斎から顔を上げてわたしを見た。


……やっと見てくれた。




「朝二人に会って来たんです。胸騒ぎがして早く起きてしまったから会いに来たって言って。二人は温かく歓迎してくれました。
シリウスがこれから何か起こるのか、と聞いてきたので答えたんです。これから戦争が起こると」

「馬はやっぱり敏感だね。人間の不安が伝染しちゃってたんだ」

「わたしは彼らに言ったんです。最悪の場合もありえるんだよ?って。そうしたらシリウスは、それは運命(さだめ)だって言いました。
ハリーからは胸騒ぎは粗末にしてはいけないって言われました。
わたしがなぜこんなにも頭の元に行きたいのかと言うと、今日という日が過ぎたら、もう二度と頭には会えないような気がするからです」

「……それがどうした」




カイルさんはまた書斎に目を戻して聞いた。

……主と家臣ではこんなにも違うものなのか。




「もしシリウスに聞いたら、きっとわたしを頭の元へと連れて行ってくれるでしょう」

「……だからどうした」




カイルさんはイラついた声を出した。




「ですからこれからシリウスに頼んで地下に行って来ます。止めなかったカイルさんたちが悪いんですからね!」



わたしはさっきから何を言っているのかわからないまま、そう言い残して書斎室を飛び出した。

出る間際に呼ばれたような気はしたけれど、わたしは猪突猛進型だ。走り出したら止まらない。




「カノン様!いってらっしゃいませ!」



厩に駆け込んだわたしを待っていてくれたのはリリーちゃん。上着を持って待機しているようにわたしが頼んでおいたのだ。



「ごめんねリリーちゃん。顔に泥を塗るようなことをして」

「いえいえ、わたしもこれで合っていると思いました。だからわたしも自覚した共犯者です」

「共犯者って……なんだか悪いことを本当はしてはいるんだけど、わたしは間違っていないような気がするんだ。
シリウス!わたしを地下に連れてって!」

『承知』




リリーちゃんが乗馬道具をシリウスにセットすると、馬房からシリウスを出した。

踏み台を使ってシリウスに跨がる。ひとりで乗るなんて無謀だけど、今はやるしかない。

他にも方法があるだろうけど、馬の足なら咎められる前に通り抜けちゃえばいいんだし。



「行ってくるねリリーちゃん!シリウス、お願い!」

『姫様、お気をつけて』

「うん!ハリーありがとう!」




シリウスの背に乗りながらハリーにそう返すと、わたしとシリウスは厩を飛び出した。

手綱をぎゅっと素手で握って、身体をシリウスに押さえつけて震動と寒さに堪える。



……頭。ケヴィさん。



まるで暗示でもしているかのように、空の色は不気味な灰色に染まっていた。



……待ってて。今行きますからどうかまだ連れて逝かないで……!




わたしとシリウスはひたすら雪の上をまっすぐに走って、嫌な空から逃げていた。