「由宇、こん詰めすぎ。本格的な業務開始は明日の昼からだし、だいたいは片付いたんだから、今日はもう帰るよ」

「でっ、でも宙くん、……あ、」



ここが事務所だということも忘れて、思わず名前で呼んでしまった。

口をつぐんだあたしの考えに気付いたのか、宙くんがまたふっと笑う。



「そんなさ、きっちり線引きしなくても。仕事は明日からなんだから」

「う、で、でも……」

「由宇」



名前を呼ばれたのとほとんど同時に、ふわりと彼のかおりが強くなった。

重ねられたくちびるのせいで、頬が急激に熱を持つ。



「……ッ、」

「……ほーら、こんなとこでキスしちゃった」

「しっ、仕事中はやめてくださいよっ、蒼井先生!」

「あはは」



苦し紛れの言葉にも、あたしより何枚だって上手な彼はあっさり笑う。

あの頃はかけていなかった黒縁のメガネを押し上げてから、顔を赤くしたあたしにもう1度キスを落とした。



「なに言ってるの。君だって事務所が落ち着いたら、『蒼井』になるんだからね」

「………ッ、」



──ああ、あの頃のあたしに、どうやってこんな未来が想像できただろう。

些細なことで悩んでいたあたしは、今、とても大きくて、あたたかい存在に支えられている。