けれども梨乃は、キュッと小さな唇を結んで、すぐには返事をしなかった。



だってまだ、この人の素性が解らないもの。


わるい人かも、しれないもの。


「すみませんでした。梨乃さま。名乗るのが先でしたね」


梨乃の態度を見て、男は困ったような顔になり、けれど、優しく微笑んで見せた。


そして、梨乃の正面に向き直ると、じん…と、耳ではなく直接胸に響くかのような低音域の声で。


「今日から書生として住み込みで世話になります。梨乃さま、私の事は、どうぞ"蓮實"と」


と、言って、深々と頭を下げて見せた。


「はす、み?」


どういった文字を書くのかは解らなかったが、男が自分に敵意がない事は何となく解った。


梨乃は噛みしめていた歯を浮かせて、ふぅと息を吐くと、もう一度まじまじと蓮實の顔を見て、次の台詞を待った。


ほんのすこし傾げた梨乃の首は細く、まだ女性のまろやかさはない。


だが、その頃でさえ、梨乃の美貌を目当てに深山咲を訪れる者は少なくなかった。


梨乃の男嫌いは娼婦になったからだけではなく、長年の体験によるものなのだ。