「ああ、申し訳、ありません。怖がらせてしまったかな?」
そう言うと男は、少しだけ眉をしかめ、申し訳なさそうな顔をして膝を軽く折り、梨乃と視線を合わせた。
「……」
梨乃は、黙ったままで男の顔を見つめていた。
自分の家である筈なのに、梨乃にとってここは決して安心出来る場所ではないのだ。
「梨乃さま……?」
男は、梨乃を本人だと決めつけたらしい。
誰なのだ、この、男は。
梨乃は、口を閉ざしたままで、男の身なりを確かめる。
真新しくはないが、質の良い着物と袴。
清潔感のあるサラリと流れる前髪から見え隠れする、知的で優しそうな瞳。
通った鼻筋に薄い色素の唇は、その当時の梨乃が知る誰よりも美しかった。
書生のような格好をしているが、もしかしたらどこかの子爵の息子だろうか?
今日は来客の予定はなかった筈だけれど……
でも。
自分だけが知らない深山咲の予定もある。
それは、梨乃が知る予定と、ほぼ同じ位の比率で。
「梨乃、さま?」
男は、訝し気に自分を見る梨乃に不機嫌になるでもなく、静かに柔らかな微笑みを向けた。
「……」


