「あのっ、私っ。ずっと見てました。ずっと、好きで…………」

「そーゆーのはいーから」

 あまりにも冷徹な夏目の声に、今自分が何をしているのか全く分からなくなる。

 思わず、口に手を当てた。

 飛び出しそうになる心臓を押さえていたつもりが、嗚咽を堪えるためにすり替わろうとしている。

 足は完全にすくんでいた。

 午後23時。連休前に珍しく早く帰宅したのにも関わらず、パソコンのドライブに入れたままになっているメディアに気付き、取りに警備室の前を通って来たらこれだ。

今まさにタイミング悪く、夏目が他部署の新人社員に告白されている所であった。

 素早くドアの外に隠れたので恐らくこちらの存在には気付かれていないものの、向こうの声は丸聞えで、まるで自分がフラれているかのような錯覚に陥った。

 そういうのはいいから、というのは具体的にはどういう意味だったのだろう。

 考える間もなく、すぐに、ドアから足早に新人社員が出て行く。相模が隠れている壁とは反対側に走って行ったので見つからなかったが、こんな所に人が隠れていることに気付いたら相当驚くだろうし、少なくとも良くは思われないはず……

「うわぁ!!!」

「!!!!!!」

 一旦退散しようと考えたのも束の間。

出て来た夏目は、相模が立ち聞きしていたことに予想通り相当驚き、見開いた目と目が合った。

「すっ、すみません!! その、今忘れ物を取りに来たら、あの……聞く、つもりはなかったんですけど……」

「…………。忘れ物って何?」

 夏目は数秒停止してから、平常心を装いながら顔を逸らして聞いた。

「CD-Rを……。あ、取ってきます。お疲れ様でしたッ」

 逃げるように室内に入った。自分のデスクの上に置かれているノートパソコンのドライブを開け、すぐにディスクを取り出す。

 その作業が終わった後、入口にまだ夏目が立ってこちらを見ていたので、あれ、どうしたんだろうと思いながら近づくと、

「おい……時間あるなら飯でも行くか」

 まさかのセリフに、あっけにとられた。

 内容もそうだが、言葉が実に荒い。普段の会社モードではなく、プライベートの雰囲気なのが嬉しく、相模は

「えっ、あっ、はいッ!!!」

 とにこやかに元気よく返事をする。

 相模が退室するまで戸口で夏目が待っていてくれたおかげで、2人は、並んでエレベーターを目指すことになった。

 これほどまでに近くで夏目の存在を感じたことはない。

 背の高さを改めて感じながら、相模ははにかむことしかできず、また、カットソーに短めのスカートで来た自分に感謝しながら、大股の夏目に着いて歩く。

「さっきのことは誰にも言うなよ。あーゆーのが一番やりづれーから」

「…………、はい……」

やりづらいって……?

「……新人の、袴田さん、でしたね……」

 それでも感想が聞きたかったので、あえて話を掘り返した。

「あー、腹減った。ラーメンでいーかー? 駅前の」

 思い切り話を逸らされた。その話題はもういいと、あからさまに振り切られる。

「あっ、はい」

 以外に返事もない。

でもしかし、ラーメンって……。

『ハナっから相手にされてねーってことだろーが』

 洲崎の声が一番に思い出される。

 というか、もしかして単に口封じのつもり?

 相模はエレベーターに乗り込むなり、

「あのっ、誰にも言いませんからっ」

と、念を押す。

「? あぁ……」

 口封じの食事なんて、要りませんから……とは、言えない。

「相模は電車通勤だっけ?」

 夏目はドアの上の表示を見ながら聞く。

「バスです」

「じゃ、車とってくっからビルの前で待ってろ。俺地下駐だから」

「あ、別に……あっ、はい」

 別に駐車場まで一緒に行ってもいいと思ったけれど、上司がそう言うんだからそれに従った方がいい。

 ロビーでエレベーターから降りた相模は、夏目のセルシオが来るまでしばし待つことになった。行き交う車はもう数が減っており、目の前を若いカップルが横切っていく。

 連休前、午後11時ともなればホテルに時化こむのにぴったりの時間帯だ。

 相模は溜息を吐き、緊張する自分を落ち着けなければ、と意識して大きく息を吸う。

今まで、業務上の会話くらいしかしたことのない夏目の車の助手席に、乗る。

 これほどまでに飛び上がれることなんてないのに、ラーメン、や口封じという言葉がこびりついて、仕事よりも重い溜息が出る始末だ。

 セルシオはすぐに登場し、クラクションを軽く一度だけ鳴らす。

 相模は溜息を振り払うように、思い切って足を踏み出す。すると、内側から助手席のドアが開き、一気に緊張感が押し寄せてきた。

「シートベルトちゃんと締めてろよ。こんなとこでつかまったらシャレになんねー」

 言われなくたって、ちゃんとするのに。

 相模はまだ自分を理解してくれていない夏目との距離を一層感じながら、シートベルトを思い切り引いてセットする。

 車内は物がほとんどないが、よく見れば空いた缶コーヒーが2本と、ガムのカスと小銭があった。

 無心で、前を向く。

 ガムのカスやコーヒーの空き缶のように、どうでも良いと思われているのであれば、これほどまでに緊張した気持ちや高揚した心が余計、空しくなる。

「相模」

「、はいっ」

 なのにまた名前を呼ばれた瞬間から、有りもしない期待に胸を膨らませてしまう。

「この前の案件、悪かったな。山さんのメールの期限のやつ」

「いえっ、あの、こちらこそすみません」

「何が?」

 横顔をちらりと見るがこちらなど一切見てはいない。ただまっすぐ、これは仕事の話なんだと念を押されるかのように、まっすぐと前を向いている。

「いやっ……あの、その、なんだか、水曜日ですって主張してしまったような……」

 いや、結局は水曜日で合っていたのだからそれでいいのだが。

「いーんだよ。自信がある時はそう言ってくれたら。あの後メール確認しなかったのか?」

「いえ、しました。確認したら、水曜日になってましたけど、早まったかもしれないと思いました」

「そういう時は俺の意見に構わず、山さんに確認すればいい。俺も間違うことがあるから。というか、山さんの間違いだけど」

「あ……はい」

「相模の仕事に対する誠意や、熱心さはピカイチだから。期待もしてるし、信用もしてるッテ!!!」

 タイヤがキュルキュルと音をたててブレーキをかけ、身体が前のめりになる。

「あっぶね!!!」

 何が起こったのか、前を見ていなかったので全く分からなかったが、夏目が咄嗟に出した左腕が丁度胸の辺りまで伸びて、フロントガラスの方に飛だそうとするのを遮ってくれる。

「どこ見てんだ!?」

 夏目は大きく身体を捻って、接触しそうになった車が走り去った先を探そうと一旦スピードを落としていたが、すぐに元に戻る。

「大丈夫か? 」

 気遣って、ちらとこちらを見てくれるが、「あ、はいッ」と固まって答えることしかできない。

 咄嗟に伸ばされた左腕が庇ってくれた感触が、何度も頭の中で再現されて、口元で手を押さえた。

 車が信号で一旦停止したが、気にせず顔を伏せていると、

「…………、おい?」

 あまりに不安そうな表情で聞かれて、逆に驚いた。

「あっ、はいっ」

 慌てて手をどけて、背を伸ばす。

「大丈夫か? どっか打ったか?」

「いえっ、大丈夫ですッ!! 」

「…………」

 街の灯りだけのほの暗い中、一時、目が合う。

「……悪かったな。急に対向車が寄って来て……」

 夏目は、若干バツが悪そうに、ハンドルを握り直して前を向く。

「……いえ……」

 表情がわざとらしかった?

 なんか、嫌な感じがした?

「…………」

 それから店に入るまでの10分間、夏目は一度も口を開かなかった。
 
こちらの気持ちに気付いて、食事を後悔したのかもしれない。

 それか、その他のことで何か嫌な気がして、車に乗り込んだこちらに怒りを感じたのかもしれない。

 相模の中には、そのような冷ややかな予測がすり抜け、車を降りた後も、悔しさと切なさしか残らず。
 
 それならば思い切って部下を辞めてみようか。

 できもしない挑発が頭を回り、更に惨めな思いをしながら、着ずれの音まで聞こえる夏目の隣という特等席で、店のドアを開くその大きな背中を見ていた。