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「痛いいぃい、ママぁぁぁぁ…………」

「ママはどこまで買い物に行ったのかなあ……、あ、洲崎君!」

 漫画家 相模 愛良(さがみ あいら)のアシスタントに採用されたその当日、豪勢な白い玄関扉を開けた途端、俺は相模先生のプライベートシーンをいきなり覗いてしまった。

 7歳になる娘、愛子は大声で泣き、膝小僧から赤黒い血が流れていて、先生はそれをしどろもどろしながら宥めようとしている。

 更には、

「私がやりますから!!」

と奥から出てきたワイシャツ姿の編集らしき男で辺りはごった返していた。

「傷の手当くらい僕がするから……」

「先生、時間分かってるんですか!? 傷の手当なら私でもできますから!!」

 編集が愛子の肩を掴んだ途端、小さな肩は大きな手を簡単に振り切る。
「嫌。パパがいい」

「あのねー、パパはとっても忙しいんだよー。ったく、奥さんはどこ行ったんですか!!」

「電話かけても出ないんだよ! ……洲崎君悪いね、ちょっと色々あって取り込んでて。ちょっととりあえずティッシュで拭いたら……」

「洲崎君、悪いけどこの子見ててもらえる?」

 編集はいきなり大役を無茶ブリしてきて、初対面の俺も「は!?」と声が出た。

「愛子ちゃん。このお兄さんは面白い人だから! 一緒に遊んでもらえばいいよ。先生、私がティッシュとってきますから、先進めといてください!!」

「……愛ちゃん。このおにいちゃんがマリオ進めてくれるからね!! 洲崎君悪いけど、君、若いし任せるよ。もうちょっとで上がりだから」

「先生すみませーん!!」

 奥の部屋から若い男の声がする。

 先生と編集はそのまま部屋に入ってしまうと、結局俺と愛子だけになった。

「マリオのボス、してくれる?」

 愛子は涙もけろっと忘れたかのように聞いてくる。が、内心俺は、漫画のアシスタントで来たのに、いきなり子守りかよ!? とかなり不機嫌になりながらも、先生の娘に愚痴るわけにもいかないし、マリオも嫌いじゃないし。とりあえずそのまま上り込み、まずはティッシュでなんとなく処置してからDSとのにらめっこが始まった。

 そこから、俺の漫画家としての本格的な道がスタートした。

 相模先生は少年ジャンプで週刊連載している漫画「ブラックソウル」の著者だ。アニメ化、グッズ化、映画化、更には世界15カ国で配信され、連載8年を誇る長寿漫画だ。

そのアシスタントに採用された時点で、力に自信を持った俺は高校を中退し、このアシスタントにまず全生命をかけることにしていた。

 当時の俺は17。しかし今考えればあの時、親に大反対されながらも自分の道を進んだのが正解だったのだろう。

 相模先生の現場は大変厳しく、そこで今の基礎になる漫画家道を十分に味わえたのだから。

想像以上に時間に追われ、ダメだしを食らう中、時々乱入する愛子は邪魔ながらも癒しの存在だった。

 しかも、乱入時は決まって俺にお菓子を差し入れてくれた。

「パパのは?」

 先生はそれに妬いて、しょっちゅう愛子に絡んでいく。

「だって、ママがパパには食べさせちゃダメっていうから」

「アメ一個くらいいいんじゃない? パパも欲しいなぁ」

「だってぇ……。洲崎君はいいけど、パパは太るからってママいつも言うし……。……ちょっと聞いてくるっ!」

 愛子がバタバタッと走っていなくなると、

「洲崎君に取られる日も近いですね」

 他のアシスタント達は笑いながら更に先生を追い込む。

「僕と洲崎君の違いは、マリオ全クリできるかできないかの違いなんだけどなあ……。愛子からすればマリオ制覇した洲崎君は神だからね。この前も友達に自慢しまくってたって家内が言ってたよ。それで男の子にDS貸してって言われて取られっぱなしで泣いて帰ってきたりね。洲崎君はもう愛ちゃんの一部なんだよ、ほんとに。アメ食べないけどね」

 甘い物があまり好きではない俺のデスクにはアメやガムが端の方に数個おいやられていた。

「すみません、甘い物、苦手で……」

「いいんだよ、いいんだよ。僕はその謙虚ながらも愛ちゃんをしっかり虜にしてる所に妬いてるだけだからッ」

 忙殺される中、先生は本当に愛子を可愛がっていた。奥さんも美人で明るかったし、仕事場兼自宅は東都市の一等地白金区の豪邸だし、まるで、絵に描いた理想の家族のようだった。

 今思えば、家族や結婚ということをあの時憧れには思わなかったが、その家族の家で仕事をしていくことに不安を感じたことなど一度もなかった。

 深夜まで仕事をしてそのまま徹夜で泊まり、奥さんが作ってくれた朝食や夜食を食べ、時には洗濯まで提案してくれるなどとても快適だった。

 しかも仕事部屋の隣には別に休憩室があり、そこの掃除なども必ずしてくれて、しかも先生は入ってこない。

しかし、そこで先生の愚痴をもらすようなこともなかった。

 温和な面白い人で、漫画の完成度はもちろん一番だが、その次に職場の協調性に重点を置いていたような気がする。それくらい、アシスタントを大切にしてくれていた。

 それが伝わっていたからこそ、みんな作品に没頭していたのだと思っていた。

「明日火曜だー。ミニスカートだな」。

 その、一言を聞くまでは。

 連載+読み切りの締切が重なった3時間の仮眠前、ソファベッドで横になりながら、先輩アシスタントが欠伸ごしに呟いた。最初、何を言っているのか全く分からなかったので、自分の知らないただの冗談か世間話だと思ってスル―していたら、

「洲崎君、明日のスカートの色、知らねーの?」

と聞かれて

「え?」

とだけ答えた。

「奥さんに、声かけられてねーの?」

 掠れるような小さな小声に、俺は数秒間を空けてから、

「はぁ?」

と眉を顰めた。

「知んねーの? 誰も言ってねーのかな。奥さん、アシ食うんだよ」

「…………」

「結構仲いいじゃん。前クッキーみたいなの貰ってなかった?」

「あれは、子供の方で……」

「ガキ使って近寄ってきてると思ったけど違ったか。まあなんか、今は前アシだった奴んとこに通ってるらしいけど。それが元でそいつアシ辞めたらしいんだよ。先生も知らんふり決め込むからなあ、まあ、そういう変な事情持ってこられると仕事どころじゃなくなるしな」

「…………」

「寝た?」

「いや、起きてます。……全然、そういう風に見たことなかったから……」

「今の男がダメんなったら、次は洲崎君かもよ~。ダントツ若いし、ガキが懐いてるし」

「やめてくださいよ。俺はそういうの興味ありません」

 頭の中では奥さんに言い寄られて手籠めにされる妄想が消えなかったが、必死で無心で答えた。

「いや、俺も人妻興味ねーけどぉ。色気あるっつーか、まあ美人じゃん? 悪くはねぇかなぁ、うん。人妻……人妻じゃなきゃなぁ」

 そういう問題じゃないだろうと強く思った。強く思いながらも、奥さんが口で慰めてくれたり、手で慰めてくれる妄想が、次から次へと絶えず流れた。

 その、たった一言で先生の家族を見る目が変わった。

 先輩の予言通り、翌日火曜日の奥さんはミニスカートを履いていた。俺は朝ようやく作業が終わった後、愛子にしつこくせがまれて学校まで一緒に登校してやってから、そのまま自宅に帰ったのでアシの所に行ったのかどうかは知らないが、疲れて先生が眠り込んでいる中、まさか、他の男の所なんかに……。

 あんなにアシスタントのことを思って良くしてくれている先生想いの奥さんが、そんな、まさか……。