「すげーわ、やっぱ相模は」

 夏目は見せたこともないような満足顔で一枚の紙を見つめながら、目を細めて口角を上げた。

「頑張りました。後は結果を待つだけです」

 午後11時半の残業終了後、完全にタイミングを見計らって計算していた相模は、ここぞとばかりに提出したばかりの論文を夏目の前に広げた。

「よくできてるなぁ。文才もあったんだな」

 いつもの代理席にいながら上目づかいで、しかも笑顔で褒められるとは妄想していたものの、まさか目をばっちり合わせてくれるとまでは予測しきれなかった相模は、

「とっ、とんでもないです」

 と、慌てて目を逸らし、思わず用紙を手前に引いてしまい込んだ。

「これは賞も夢じゃないな。ってあんまり期待しすぎてもいけねーけど。いや、だとしても俺も上司として鼻が高いよ。幹部にも読んでもらおう。貸して。コピーとるから」

「えっ、いえっ、あの、これをどうぞ。家にデータがありますから……」

「あそう? じゃあそのまま預かるわ」

 夏目は受け取った用紙をデスクの引き出しにしまってからすぐに立ち上がると、さあて、飯でも行くか! と上機嫌でこちらを見た。

「もう遅いけど、金曜だしいーか? ラーメン」

「えっ、はい!! ご一緒します」

 まさか、賞を取っもいないのにもう取った気取りで食事に行けるなんて!! 予想を遥かに上回る急展開で大きな期待を胸に抱いた相模は、素早くデスクの上のバックを握り締め、先に出る夏目の後を追った。

「相模が志願してくれて本当に良かったよ」

 その背中に追いつくなり、歩調を合わせてくれる。

「……そう言って頂けると……私も頑張った甲斐があります」

「会社ってのはな、そういう頑張ってる奴をちゃんと見てるから。相模も頑張れ。この論文の成果が例え出なかったとしても、必ずお前は上に行ける。俺はお前を推薦するよ。本当によく付いて来てくれてる」

「……………………」

 あり得ないほどの褒め言葉に、まさか夢ではなかろうかとただその横顔を見つめた。

「俺は言っても伝わらねー奴には言わねーから。けど相模は違う。まだ入社して間がねーのにな。

 野原と結婚しても、俺は相模には残ってもらいたいね」

「えっ!?!?」

 丁度エレベーターの前で立ち止まり、驚いて顔を見上げた。当然、目が合う。

「何? 」

 逆に驚き返している夏目を見て、

「えっ、あっ、のっ、の、野原って誰ですか?」

 言葉を噛みながらもなんとかセリフになる。

 だが夏目も、驚き返して

「野原って言ったら野原だよ。うちの。野原大介」

「私、結婚しませんけど……」

 無表情で言った。何で私が野原君なんかと、という顔を隠すこともせず。

「あ……野原自身がそう思ってるだけなのか。まあでもなんか野原はそう言ってたよ。俺は本人が言ってるのを聞いただけだから」

「何て言ってました? あの人」

 相模は顔を歪めて冷たく聞いた。

「えっ、と、結婚するって言ってたと思う。俺の聞き違いかな……まあ、酒の席ではあったし……」

「全然違います!! 付き合ってもないです。そういうこと、簡単に言われると迷惑ですよ、本当に」

「まあ、そうだな……」

 夏目はバツが悪そうに、タイミング良く開いたエレベーターの扉から先に中に乗り込んだ。

 だが、絶好のタイミングだと直感した相模は、

「夏目代理は結婚しないんですか?」

と期待を込めて、その、もう我が者のように見慣れた横顔を見つめながら聞いた。

「…………」

 数秒間がある。

 数秒、固まったように動かなくなった夏目の心に、自分が芽生えたのではないかと相模は妄想し、たった3秒をまるで永遠の時間のように待った。

「してるよ」

 えっ…………。

 エレベーターの扉が再び開き、夏目は先に出て行ってしまう。

 慌ててつられるように降りた相模は、声も出ず、ただその後を追った。

「…………」

 夏目は何も言わない。聞き違いではないかと、もう一度話をぶり返した。

「まっ、前からしてたんですか?」

「正確にはまだしてねーけど、する予定。半年も先」

「かっ、会社の人ですか?」

「そういうの聞かれるの嫌だから先に辞めさせたんだけどな……、車とってくるわ」