プリンターから出てくる見積書を待ちながらふと昨晩の石岡を思い出す。夜になってますます混みあっている中華街で、中華街を出るまでのほんの少しの間だけだったが、石岡は躊躇いもなく穴瀬の手を引いて歩いた。『はぐれないように』と、穴瀬の手を取ったとき、彼の目がそう言ったのを思い出して穴瀬は不思議な気持ちがする。手を繋いで歩いたその事よりも、手を取られた瞬間の事を思うと胸が掴まれるようになるのは何故なのだろう。

中華街を出る頃、人ごみが途切れて石岡はそっと手を離した。さり気なく携帯電話を弄って時間を確認するために手を離した、という離し方だった。駐車場へ向かいながら、彼の手は何度も穴瀬の手に触れそうになるのに、石岡はもう穴瀬の手を握ったりはしなかった。

「穴瀬さん」

事務の女性の声に我に返る。

「あ、はい?」

「出てますよ、プリンター。私のも出てると思うんだけど。」

「あ、ごめ・・・」

穴瀬はプリントを確認して自分の分だけを取り、残りを彼女に手渡した。プリントした見積書を歩きながら確認する。チェック箇所を何度も確認してクリップをしながらまた石岡のことを思い出す。

夜の高速道路をノンビリと走らせて石岡は真っ直ぐに穴瀬を家まで送り届けた。家の前で助手席側の窓を開けて手を振った石岡の笑顔はどこかいつもと違っていたような気がする。なにか吹っ切れたような、さっぱりとした笑顔だった。

プルルルルルルル・・・

内線が鳴った。見積書のクリップを弄くりながら用件を聞いて切る。穴瀬は見積書を部長の席に置きしな、所長室へ向かった。


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所長室のドアを静かに閉めると、廊下に敷かれたカーペットのシミをひとつ見つけた。所長室にコーヒーを運んだ誰かが零したシミなのだろうか。今まで何度だってこの部屋に入ったのに、新しそうではないそのシミを見たのは初めてだった。

自席に戻ると踊っていたウィンドーズのロゴは気をつけをするようにモニターのどこかに隠れてしまい、先ほど作業をしていた見積書の画面が何事も無かったかのように現れる。モニターの下に置いた携帯電話をチロリと見て、どうしようかな、と思うがその時、外線が穴瀬を呼んでいると事務の女性が独特の声色で向こうの席から告げた。

商談の約束を一件取り付けて電話を切ると、穴瀬は先ほど部長のデスクに置いた見積もり書をOUTという箱から取り上げて、クリアファイルに入れると自分のアタッシュに突っ込んだ。ホワイトボードに直帰、と書いて営業所を出る。

携帯電話をコートのポケットの中で転がしながら、何て言ったらいいだろうかと何度も考えた。