次の週の火曜日も、ハサンはりんどう珈琲にやってきた。その日は雨が降っていた。見るか見えないかわからないくらい細い、9月の終わりに降る独特の雨。傘をさしてもしっとり濡れる、秋の雨だ。
「こんにちは。マスター。雨ですね」
「やあハサン。雨だね」
ハサンは傘をたたむと、この間と同じいちばん奥の窓際の席に座った。店内にはジョニ・ミッチェルが流れている。わたしがマスターに頼んでかけてもらったものだ。
「こんにちは。ハサン。今日も貸し切りだね」
わたしはハサンにお水を運ぶと、マスターに聞こえないように小さい声で言う。
「こんにちは。ヒイラギ。でもマスターはお客がいないのに全然焦っているようには見えないね」
「うん。マスターはいつもあんな感じ。お客さんがいてもいなくても、いつもかわらない」
その日だっていつも通りの変わらない午後だと思っていた。でも同じ毎日なんてほんとはどこにもない。わたしはこの火曜日の午後のことを死ぬまで忘れないと思う。だってそれはわたしが自分以外の誰かの心の奥の奥の方にある、心の塊みたいなものにはじめて出会って、それの端っこに触れた日だったから。
その日ハサンはいつも通り手紙を書いていた。けれども彼は早々に書くのを諦めたように、窓の外をずっと眺めていた。まるで雨を見に来たみたいに。わたしにはハサンが、雨の中になにかを探しているようにも見えた。朝から降り続ける雨は町のすべてをまんべんなく濡らし、雨雲はまだ日が沈む前のこの町を暗く覆っていた。そのとき、ハサンのほおを最初の涙がつたうのをわたしは見逃さなかった。わたしはいつも通りカウンターの前に立っていたけれど、なんとなく気になって時々横目でハサンのことを目で追っていたから。涙の最初のひと雫がほおを伝うと、あとは山頂の湧き水があとからあとから湧き出るように、それは次々にあふれてきた。でもハサンはまるでそんなことには気づかないかのように、涙を拭わずに窓の外を見続けていた。
