りんどう珈琲


「マスターは名誉の殺人という言葉を聞いたことがありますか?」

「いや、ない」

「そうですよね。普通はないです。でも僕の国にはそういう言葉があります」

「名誉の殺人?」

「はい。僕が恋をした相手は、ヤスミーンという同い年の女性でした。ヤスミーンというのはパキスタンの国花でジャスミンのことです。彼女はその名前の通り美しい女性でした。そしてなにより優しい心を持っていました。僕らは村の共同の水汲み場で出会いました。パキスタンは未婚の女性が外を出歩くことは少ないのですが、彼女は家庭に病気の母がいて、その手伝いでときどき水を汲みに来ていました。僕らはそこで言葉を交わすようになりました。彼女にはお互いの親同士が決めた婚約者がいて、半年後には結婚することが決まっていました。しかしヤスミーンはその結婚相手にはまだ会ったことがないといいました。そして自分はまだ結婚をしたくないのだとも。いつしかわたしは、ヤスミーンに恋をしていました。そして彼女は僕に救いを求めているのだと思いました。水汲み場でヤスミーンに会えない日には、胸が張り裂けるような思いでした。息ができないほどの苦しさを感じました。僕はいつしかヤスミーンを誰にも渡したくないと考えるようになっていたんです」


 そこでハサンは一息入れるように珈琲を飲んだ。マスターは黙って話の続きを待っていた。


「でもそれはとても危険なことだったのです。ある日僕とヤスミーンは、夕暮れ時の水汲み場ではじめてキスをしました。それはどちらからともなく生まれた、自然のなりゆきでした。その日の夕方も今日みたいな細い雨が降っていました。そしてその雨はまとわりつくように僕らを濡らしていました。それは僕の人生の中に起こった、いちばん美しい3秒間でした。しかし偶然そこを通りかかったヤスミーンの親戚がそれを見かけてしまったのです。そしてその夜、彼女は死にました」