ハサンは目を閉じて大きく息をつく。
「僕は人を殺しました。10年前の話です」
コーヒーを淹れながら、わたしの心臓が急に動き出したみたいに大きな音をさせる。ハサンが人を殺した? 何の話? わたしは珈琲をテーブルに運ぶ。手が震えているのがわかる。そして珈琲をテーブルに置くと、自分の分はカウンターに持ち帰る。そしてカウンターのいちばん端の椅子に座る。
マスターが珈琲をひと口飲むのを合図にしたみたいに、ハサンが話し始める。
「このあいだも話したように僕はパキスタンで生まれました。母親がパキスタン人で、父は日本人です。生まれたのは首都のイスラマバードで、母は日本から転勤で来ていた父と知り合って結婚しました。しかし僕が5歳のとき、2人は別居することになり、父は僕らを置いて日本へ帰ってしまいました。母と僕はイスラマバードから200キロほど離れた、インダス川の近くの母の故郷に引っ越しました。山岳部の小さな村でした。そこで僕は5歳から17歳までの12年間を過ごしました。マスターはパキスタンに行ったことはありますか?」
「いや、行ったことはないし、パキスタンのことをほとんど知らない」
「そうですよね。パキスタンはイスラムの国です。1947年にイギリスから独立するときに、ヒンドゥー教徒地域がインドになり、イスラム教徒地域がパキスタンになりました。宗教上の分離独立です。ガンジーがひとつのインドを目指して独立運動を続けましたが、インドとパキスタンはひとつにはなれませんでした。正義はひとつじゃなかった。そしてガンジーも死にました。いずれにせよ、僕はイスラムの国で育ちました。そして17歳のときにはじめて恋をしました。でもそこでは恋に落ちることは死ぬことだったのです」
「死ぬこと?」
「はい。死ぬことです」
