りんどう珈琲

 どれくらいの時間がたったのだろう。おそらく10分くらいだ。3人分の10分が、それぞれの重みで前に進んだ。ハサンはバッグからタオルを取り出すと、代わりに涙でぐっしょり濡れてしまった便せんをしまった。そして顔を洗ったあとみたいにタオルで顔を拭いた。

「マスター。珈琲をもう1杯ください」

 そういってハサンはマスターとわたしに笑いかけた。もう大丈夫という意思表示のように。でもハサンの顔には涙の跡がくっきり見えた。少なくともわたしにはそれが見えた。そして涙って跡になるんだなと思った。わたしは今までそんなことを考えたこともなかった。


 珈琲を運ぶときにわたしは戸惑う。でも見ていないふりなんてできない。

「ハサン大丈夫?」

 ハサンはわたしを安心させるように笑ってくれる。

「ヒイラギ。ありがとう。でももう大丈夫」

「うん。それならよかった」

 わたしはそれだけしかかける言葉のない自分のことを悲しいと思う。伝えたい気持ちを言葉から探せないってことがあるんだっていうことに気づく。もっと違うことが言いたいのに、ぜんぜんうまく言えない。

「なあハサン。珈琲と一緒にこのケーキ食べてみてよ。メニューにしてみようと思って試しに焼いたんだ」

 マスターがカウンターからケーキを持って出てくる。そしてそれをハサンのテーブルにおくと、少しだけ笑顔を見せてまたカウンターに帰っていく。

「マスター。ありがとうございます。いただきます」

「ああ。おいしいかわからないけど」

「マスター、すいませんでした」

 マスターは振り返ってハサンを見る。穏やかな顔で。

「どうして?」

「泣いてしまいました。すいません」

「ここは喫茶店だ。ハサンの好きにすればいい。泣きたかったら好きなだけ泣けばいいよ」
 
 ハサンは少し考えたような仕草を見せ、そして言う。

「マスターも泣きたいときがありますか?」

「もちろんある」

「ねえマスター。少しだけ話をしてもいいですか?」

 マスターは真夜中の満月みたいに中立的な顔をして少しだけ考えたあと、引き返してハサンのテーブルの正面のイスに座る。

「なあ、ひい。珈琲煎れてよ。俺の分と、ひいの分」

「うん。わかった。ちょっと待ってね」

 わたしはカウンターに入って、お湯をわかす。ハサンはマスターにどんな話があるんだろう。ハサンの前に座ったマスターは、なんだかマスターじゃないみたいに見える。カウンターの中にいないだけなのに。わたしはそんなことを考える。