「ねえマスター。ハサンが泣いている」
わたしは振り返らずに、マスターにそっと伝えた。
「そういうこともある」
マスターはいつもと変わらない口調で、後ろからわたしにだけ届く声で言った。
わたしは今すぐハサンのところに行って、ハサンに声をかけてあげたかった。でもマスターの言葉がそれを押しとどめた。ここはマスターの場所だ。マスターがそういうこともあるというなら、今がそういうときなのだろう。
そのうちにハサンは両手で顔を覆い、体を上下させながら泣き始めた。ハサンの両方の手のひらの下から、風に散る木蓮の花びらのような大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ち、テーブルの上の便せんを濡らしていた。わたしは男の人がこんな風に泣くのをはじめて見た。
「ねえマスター」
わたしは振り向いてマスターの顔を見る。マスターはまっすぐにわたしを見つめると、ただ黙って首を横にふる。わたしはどうしていいのかわからないまま、窓の外を見る。マスターは何を考えているんだろう。ジョニ・ミッチェルの歌声と、強まり始めた雨の音だけが、りんどう珈琲に響く。
