直人はツナギのファスナーを下ろして、上半身をはだけた。空は青く澄んでいる。和んだ雰囲気の中、直人は一瞬冷静になろうと努めた。このままいけば、午後の決勝は路面温度がさらに上がって、タイヤの負担がかなり大きくなるだろう。直人のマシンのタイヤは、2週間前のレースの予選で既に1度使ったものだった。限界点は低い。グリップがどこまでもつのだろうか?だが何より気になっていたのはエンジンのことだった。予選の時に感じたのだが、いくらロー・ギアード(ギア・レシオが低い、つまり加速重視のセッティングのこと)とはいえ、エンジンの回りが鈍い気がする。音もあまり良いとは言えない。セッティング・ミスだろうか?それともメカニカル・トラブルか?とにかくあとでもう一度チェックしなければ…。そう思っていた時だった。突然後ろから声が響いた。
「やあやあ、きれいどころがお2人も、僕の走りを見に来てくれたのかい?」
直人は我にかえって振り返った。そこには1人のライダーが立っていた。そのツナギからすぐにそれが誰であるかがわかった。星野エンジニアリング・チームの中野真二だ。
「あれ武田くん、君まだ走ってたんだ」
中野が言った。直人を頭のてっぺんからつま先まで眺めたあとで…。
この中野という男は、確かに優れたライダーである。同じコースを走っていても、直人を含めたその他のライダーとは、まるで別次元にいるような走りをする。たが、それは乗っているマシンがいいからだ。奴の乗るヤマハのセミ・ワークス仕様のマシンは、直人のマシンとは馬力もトルクもはるかに違う。あれだけのマシンがあれば俺だって…、少なくとも直人はそう考えることにしていた。まあ走りのことは置いておくとして、サーキットの外での中野の行動は、あまりいいウワサを耳にしない。性格がとびっきりにねじ曲がっている。そんなライダーだった。
「ごめんね武田くん、僕さぁ毎回ポール奪っちゃうから、前には誰もいないんだよ。でもさ、レースの最中に後ろばかりを見てはいられないからさ、君がまだ走ってたなんて全然知らなかったよ」