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 ケセは具合が悪かった。昨日蹴られた所為か食欲が無い。尤も、両親が頼んだ食事は余りに貧相で、食欲の無いケセでも一応食べる事は出来たのだが。
 だが、一口一口味がしない。噛んでいるのが、パンだか何だか解らない。気を抜くと吐きそうになる。
 外はまだ暗かった。三時過ぎなのだ。当たり前といえば当たり前だった。だが、朝食を食べ、弁当を包んでもらい、そうこうしているうちに四時になり、少しずつ空が白み始めてきた。
「急ぐぞ」
 父親がケセを急かした。
 ケセは頷く。体調不良を言ってみたところで、『それ位、サフィアの事を考えれば大した事は無い筈だ!!』と、言われるのが解っていたから。
 いつの間にこうなってしまったのだろう?
 ケセは誰からも愛されなくなってしまった。愛されようと努力はしてきたのに。必死で努力してきたのに顧みられる事さえなかった。
 ケセが悪かったのだろうか?
 だけれども、お父様とお母様は僕を旅に連れてきて下さった。
 やはり愛されているのだと、信じたかった。サフィアと同じ位とは言わない。その半分だけでも、愛されているのなら。
 青い瞳には、愛情の飢餓故に野良猫のような飢えた輝きがあった。
 もし、サフィアが病弱ではなく健康な少女であったなら全ては変わっていただろうか?
 考えても仕方の無い繰言とはいえ、六歳半の男の子には考えずにはいられない事だった。
 それでも、パブ兼宿屋を出てからケセは必死で歩いた。相変わらず体調は悪かったが置いていかれる方が怖かった。
 一人にしないで……!
 ケセ達はシンシンリーにまっすぐ向かわず、精霊の樹海を通った。
 白み始めた空の下、しかし木々が鬱蒼と茂る樹海は暗かった。ケセは何度も足をとられては転んでしまう。
「早く立て!」
 そう怒鳴られるのはまだ良い方で、何も言わず長靴で尻を蹴られることもあった。
 母が転びかけると、父が支える。その逆もまた、然り。
 だが、ケセは両親に手を繋いでもらえなかった。男の子が女々しいという理由で。
 樹海は何処までも広がっている様にケセには思えた。此処を抜ければ、山歩きが待っている筈であった。
 だけれども、お父様とお母様は山になど何の用事があるのだろう。
 こんな事をしている間にサフィアが死んでしまったら?
 その時、不意に母が足を止めた。
「……!?」
 父が母の名を呼んだ。だが、母は父の腕を振り払い、雪の中にランタンを置くと突然屈みこみ、ケセの頬に口づけた。
「ヴェロニカ!」
 父が母の名をもう一度呼んだ。
 そうだ。お母様の名前はヴェロニカといったのだった。美しい良い響きの名前。
「ご免なさい。ケセ」
 そのヴェロニカの顔に苦痛の色が走る。
「許して頂戴。お母様を許して頂戴」
「お母様?」
 ケセは母の苦痛を知らなかった。昨夜、ケセが眠ってから両親の間で今までに何度も交わされてきた囁き、そして決断が下された問題を、ケセは知らなかったのだ。
「ヴェロニカ、ケセを放しなさい。ケセが窒息してしまう。ケセ、お前は良い子だな。お父様はお前を誇りに思っているぞ」
「お、お父様……?」
 ケセは絶句した。母が自分を抱く腕に一瞬だけ力を込めて、放した。
 誇り? この僕が?
「お前は勇気のある子だ。違うかい? 私の期待を裏切らない子供だな?」
 昨日と全く態度が違う父を見ていると、怖くなってしまう。嬉しくなってしまう前に。
 何かが、ある。
 だが、ケセは頷いた。頷かねば、父に失望されてしまう。