《小さき者よ、そなたは何を求めてここに来やった?》
 質問が思ったより簡単なのでヒトカはほっとする。
《恋人を……》
《やめい》
 訊いてきた張本人の聖獣が「やめい」と言ったのでヒトカの言葉は宙に浮いたままだ。
 深緑の目を見開き、ヒトカは硬直する。一体どうせよと?
《長くなりそうじゃ、我は長い話は好かぬ。身体に聞くとしよう》
 聖獣は、今度は左前足を出してきた。そして顎をしゃくる。どうやらこの前足に触れという事らしい、と、思いつつ、それに自分の手を乗せた途端。
 想いが激流となって溢れ出した。

 ケセ。

 たった一人の名前に集約される思いの全てを、聖獣は何もせず、ただ読み取った。
 ぱっと聖獣が左前足を払う。
 手を乗せていたヒトカの身体が吹き飛ばされる。その身体が地面に叩きつけられて、ヒトカは地面に仰向けに倒れた。背中を打った所為か、げほげほと咳き込んでしまう。
 聖獣は興味深そうにヒトカを見ていた。
 その目の優しさに気付いたミリエルはほっとする。そして、ヒトカが半身を起こした時に聖獣は問うた。
《質問を変えよう。汝、ケセとやらの為に死ねるか?》
《……僕の答えも『是であり否』です。ケセの為に死ぬのはとても簡単だけれども、それは自己満足にしか過ぎない。残されたケセの気持ちを考えたらそんな道は選べない。僕は何があっても生きる事を選ぶでしょう》
 ヒトカの答えに、聖獣は意地悪そうに問いを重ねる。
《では汝と汝の想い人、どちらかが死ぬしかなかったならば?》
 ヒトカは考え込んだ。この聖獣はこんなに美しいのに何と意地が悪いのだろう?
 ヒトカは考えた。
 考えに考えた。
 そして遂に答える。
《ケセに生きてもらいます》
《それは残酷な答えである事よ。恋人に、愛する者が存在しない世界で生きろというのかえ? それは汝のただの自己満足であろう。先程、そなた自身が言うたではないか》
 聖獣の声に、ヒトカはゆっくりと首を振った。その瞳から透明なものが零れる。
 聖獣にはそれが血の色をしているようにしか見えなかった。愛い奴。それ故に、つい、苛めたくなってしまう。
《そうかもしれません、始祖の王者よ。僕の想いはただの自己満足に過ぎないものかもしれません》
 ヒトカの涙は止まらなかった。だが、笑顔を作ってみせる。その笑顔に、聖獣は首をかしげ、黙ってヒトカの話を聞いた。
《僕が死んでも、ケセは物語を作り続ける事でしょう。その物語は沢山の人々の間で生き続ける事でしょう。ケセは死なない。永遠に人の心の中で生き続ける!》
 聖獣は突然、嘶いた。
 その嘶き声が聖地への道への鍵だったらしい。聖獣の背後に、緑の大地が見えた。そしてむせ返るような薔薇の香りも。
 そして聖獣は右前足を出す。ヒトカは立ち上がるとその足に触れた。
 どくん!
 心臓の鼓動。命の脈道。
 始祖の王者が後足で大地を掻いた。
 そして高らかに宣言する。
《通るが良い。聖地にて、汝の求むるモノが見つかるよう我はささやかな祈りを捧げんとす》
 聖獣の瞳には今は面白がる気配は無かった。ただ、慈悲深く祈りに満ちていた。
 そして唐突に聖獣はヒトカの心に話しかけた。ディオヴィカの巫女でさえ気付かぬよう、ひっそりと。

 トウヤ。それが我の名ぞ。一度だけ、助けてやろう。汝がケセとやらを思う心故に。

 えっ、と、ヒトカは目の前の聖獣を、トウヤを見やった。トウヤは笑っている。
 その笑顔に、ヒトカは笑みを返した。
 自分だけが知る秘密の名。ディオヴィカの巫女を出し抜いた事で、ふたりは共犯者のような思いを描いていたのだった。
 すぐそこが聖地、茨の谷。
 ヒトカはトウヤに一礼すると、ミリエルを横抱きにして、一歩、踏み出した。
 その道の険しさを知るトウヤは、しかし、名を与える事しか出来なかった。