《あんたはやっぱりあの御方の愛し児だね》
 唐突にミリエルは言った。その時には、ミリエルの小屋はまるで点の様に小さくしか見えず、それすら凄まじい勢いで遠ざかっていくところだった。
《冬の空は寒いのに。風の精霊が命じてもいないのに寒気から守ってくれているよ》
《貴女を守っているのかもしれないよ、レディ。それにしても空が飛べるのなら僕が抱いて運ばなくっても……》
《馬鹿だね、あんた》
 言い切られて、ヒトカはむっとした。
《だって!》
《だっても糸瓜もないよ。あんたが私を抱いていなければ、風の精霊はあんたを運ばなかった。そして『凪の地』》
《『凪の地』って何ですか? 聖地の手前って……何故風の精霊に聖地まで運んでもらわないのです?》
《あんたは本当馬鹿だねぇ。まぁ、年もそういっていないようだから仕方の無い事かもしれないけれども、それにしても、ねぇ。『凪の地』は聖地を守る土地だよ。聖地同様、力が使えなくなる。力が使えないという事は、精霊達の力を行使する事も出来ないって事だよ》
《あ、そっか》
《そっかじゃないよ。馬鹿だね。『凪の地』に着いたら、私は足のいかれた哀れな老婆さ。しっかり運んでおくれよ、聖地まで。あと、あんたは嘘吐きじゃないね?》
《精霊が嘘吐きな訳無いでしょう? 嘘なんか吐いたら言霊に引き裂かれる》
《良かったよ。小さな嘘なら痛み程度しか言霊は与えない。それでも嘘吐きじゃないって言えるのは良い事だ》
《何故?》
《これ以上は喋る事が出来ない。巫女としての制約故にね。ほら、最初の試練が訪れる》
 ふわり、風の流れが止まった。
 その途端、地に吸い込まれるような感覚を覚え、そして降り立ったのは……。
 何もない地。
 雪もない地。
 緑もない地。
 ただ荒涼とした大地だけが広がる。
 風の精霊が入るを許されなかった『凪の地』。
 そこに身体を投げ出されたヒトカは、横に投げ出された巫女に言葉をかけようとした。
 あの衝撃で地面に投げ出されたのにも関わらず、ヒトカの身体は何処も痛くない。立ち上がって、ミリエルの傍に近寄って。
 声が出なかった。そして影が落ちる。
《汝、声発するを許されるは我が質問に答える時のみと知れ》
 銀色の瞳をした純白の獣がそこにいた。
 ヒトカは感じる。
 これは逆らってはならないものだ。
 ヒトカがディオヴィカの愛し児であるという事で優遇してくれるような相手ではない。
 もしかすればディオヴィカでさえ一目おく相手かも知れない。
 それだけの力が目の前の獣、否、聖獣からは感じ取ることが出来た。
 最も原始的な力。
 太陽の金。月の銀。
 それらと同じように普遍で変わらないもの。
 こんな聖なる力もつ美しいものが住まう地を何故皆は『凪』だなどと言うのか。
 聖獣はヒトカよりはるかに大きかった。
 唇から銀色の牙が覗く。まるで巨大な狼のようなその聖獣の額には黄金の宝玉。ヒトカの拳程在りそうな宝玉の持ち主。だが石に力があるのではない。アレは飾りに過ぎない。戴く存在にこそ力有るものだ、と、ヒトカは思う。それは本能的な知識だった。
 横でミリエルが身体を起こした。
《巫女や、汝、何故我が眠り妨げた?》
《……聖地に行きたいのです。始祖の王者よ》
 ミリエルの声は震えてはいなかった。それがヒトカの勇気になる。
 か弱い巫女が怯えていないのに、この自分が怯えなど見せられようか!
 それにこの美しい聖獣──始祖の王者──に侮られるのは嫌だった。認められたい。
《では、巫女よ。汝とそこの子供に、古よりの約定に従い質問しよう。それに答える事叶えば聖地への道開かん》
《なんなりと。答える事が叶う全てのものに答えましょう》
 ミリエルがいった。ヒトカも頷く。声は未だ出なかった。
《まずは巫女、汝がかつて此処を通った時に我は問うたな。握り締めた指輪をどうするのかと。そなたは答えた。『想いと共に捨てる』と。その想いは捨てられたのか?》
《是であり否であります。始祖の王者よ》
《面白い答えであることよの》
 始祖の王者と呼ばれる聖獣はくつり、笑った。本気で面白がっているらしいのが銀の瞳の輝きより推察される。
《熱い想いは捨てました。あの指輪と共に。ですが、思い出は死に絶えていなかったのです。熱く想う事も、恋しく想う事も、なくなりました。そう、あの男……ルービックは、良い男ではないと思い知りましたしね。これは指輪を捨ててからの暫く後の話ですが。でも、辛い時、ふと想うのです。『こんな私でも、求められた事はあった』と。その思い出は捨てられませんでした》
 聖獣は頷くと、ふさふさとした、純白の体毛に包まれた右の前足を出した。ミリエルがその大きな前足に触れる。大きな獣のような聖獣の前足は、ミリエルの手を小さく、小さく、見せた。そしてミリエルは手を離す。
《では、子供よ、汝の番ぞ》
 どくん! とヒトカの心臓が跳ね上がった。