《ミリエル!! 言霊が……!》
 ヒトカの叫びにミリエルは笑って見せた。意地の悪い笑顔。ミリエルの仮面。
《天地に誓いましょう。我、朽ち果てんともこの山に留まり、指輪がこの指にはめられる日を待つ事を》
《ミリエル!》
《楽な道はあったんだよ。あんたがそれを拒絶した。私はだから誓う。面白そうじゃないか。あんたはちゃんと覚悟して代償を払うと言ったんだろう? ただし、早くしないと私が骸骨になってからじゃ、女王様が求めるものを教える事は出来ないよ?》
 ヒトカは頷いた。何度も何度も頷いた。
 緑の瞳に涙が浮かんだ。その涙を節くれだった老婆の指が拭う。
 笑顔の影の悲しみ。
 ミリエルが隠し持つものに気付いて、ヒトカはミリエルの頬に音立ててキスをした。
《僕の恋人は嫉妬深いからね。唇へのキスは許してね。ミリエル、貴女は素敵な人だ。だから必ず、指輪を見つけるよ》
 ミリエルの頬に朱が刺した。耳までが赤い。
 その表情はまるで娘のようで十年は若返って見えるようだった。
《あんたを信じてみるよ。お休み》
 早口にそういうと、ミリエルは立ち上がり、燭台に手を伸ばした。
《お休み》
 ヒトカが言う。
 ミリエルは答えず、燭台をもって、退出してしまった。
 暗闇の中、ヒトカは一人、取り残される。
 大丈夫だ。
 上思議な自信があった。
 この手が血塗れになっても、指輪は取り戻す。捨てられた甘い記憶と共に。
 覚悟を決め、目を瞑り、そして朝がくる。
 ヒトカは起き出すと、着替えた。赤い立派な上着と白のシャツ、上着とシャツの間に着る黒のセーター。黒のズボン。みな、ミリエルが仕立ててくれたものだった。
 ミリエルはヒトカの看病だけでなく、着る?にまで気を遣ってくれたのだ。
 二日で仕立てた訳ではない。ヒトカが山頂を目指し始めると同時に作り出したものであった。
 どうせ、ここまで辿り着ける訳無いよ。
 そう思いながらも、何故か指は止まらなかった。信じられない事柄が自分の単調な四十八年間に、一つ位あってもいいような気がしたのだ。
 そしてそれは現実になる。
《着替え終わりました》
 扉の外のミリエルに、ヒトカは声をかけた。
 ミリエルはそっと入ってくると、薬湯を差し出した。ヒトカは一瞬、眉を寄せ、それから一気に飲み干した。
《本当に行くんだね》
 ミリエルの声に、ヒトカは頷く。
《じゃあ、私を連れて行ってくれないかい?この足の所為で、この家から出る事もままならないんだよ。他人の力を借りなくちゃね。代償は、女王様が欲しがっているもののある場所だよ》
《場所!? そんな事まで貴女は知っていると!?》
《これでも私は巫女だよ。毎朝毎晩、女王様に祈りを捧げる巫女だよ》
 ヒトカの胸に熱いものがうずいた。
 ああ、これでケセを助けられる……!
 ヒトカには簡単に行き過ぎるような気がした。こんな簡単に事が進む事を、あの女王が許すだろうか?
 茨の谷を見た事もないヒトカは短絡的に考えた。
 聖地。聖なる土地。季節に関わらず薔薇に溢れる場所。
 そんな場所ならヒトカにきっと優しい筈。
 ヒトカはディオヴィカの愛し児なのだから。
 ひょいと、ヒトカはミリエルを横抱きに抱きかかえた。
《ちょ……あんた!》
《ミリエル、首にしっかり?まっていて。暴れたら落とすよ》
 物騒な事をさらりと言ってしまうヒトカは、だが、赤子でも抱くように優しくミリエルを抱き締めていた。
 家の外に出ると、ミリエルはヒトカの首筋に腕を回しながらおもむろに呪を唱えた。
《風の精霊、我らの身体を聖地の手前、『凪の地』まで運べ。我が吊はミリエル。女王の巫女直々に参らん》
 ふぅわりと、風が動いた。
 『凪の地』とは何処だろう? そう考える間にも身体はどんどん風にさらわれて行く。
 思えば、ヒトカはシンシンリーの精霊であるのに、シンシンリーの全てを知っている訳ではなかった。
 今まではそれで良かったかもしれない。だけれども、ディオヴィカへの献上物を探している時にこれはまずいだろうと、ヒトカは思う。無知である自分が恥ずかしかった。