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 手をつないだ¬岬が、こんなに速足で私を引っ張るのはこれが初めてのことだった。

 こちらのスピードに合わせて手を引いてくれるいつもとは、気配が全く違っていた。

「家をかりる」

「えっ?」

 かりる、の意味が分からなくて聞き直した。

「俺の給料なら、十分やっていけますよ」

「えっ……………えっ?」

 そこで岬はようやく立ち止まった。

 繋いでいる手をしっかり握り直したせいで、少し痛い。

「着いてきな。俺に、一生」

 薄暗い中、その瞳だけはしっかりと見えた。

 岬の視界に、自分が包み込まれていくのがはっきりと分かる。

「…………、…………」

 言葉が出なくて俯いた。

「さっきのヤローが気になるんですか?」

「…………、…………」

 それもあるけど、他にも色々なことが気になり過ぎて、今一生ついて来いと言われても、二つ返事では頷けない。

「…………、まぁ。いいや」

 岬は向き直り、また歩き始めた。

 私も、引っ張られながら、後に続く。

「しばらくは宗司朗さんの所に住まわせてもらうことにします」

「……宗司朗さん?」

 もう寮で住めないと思っている私の気持ちをきちんと分かってくれていることに、ほっとする。

「だらしねー奴だが、そこんとこは分かってくれますよ」

「……あの人、一人暮らしですか?」

「まさか。雅が一緒ですよ。1人暮らしの所へ送り込もうなんか考えちゃいねーですよ」

「…………ですよね……」

「さ、急ぎますよ」
 



 バンバンバンバン。

 静まり返った夜の街中で、岬は大きな音を立て、玄関の開き戸を叩いた。

「宗司朗さぁん、宗司朗さぁん。開けてください!」

 スナックの二階にある借家のようだが、こんな所で若い雅さんと2人で暮らしてるってちょっと危険な気がする。あの2人は一体どういう関係なんだろう。

「……あの、ちょっと声大きくないですか?」

「大丈夫ですよ。こっちは警察手帳見せて入るところをわざわざ通常モードにしてやってるくらいですから」

「そうッ……」

 その時、中の電気がついて足音が近づいてきたと思ったらすぐにドアが開く。

「うるせー!!!! 今何時だとッ!!!」

「……こんばんは……」

 まず目が合った私は控えめに挨拶をする。

 寝ていたらしき死んだ目をした銀時は、私を無視して、岬を見た。

「何なの一体? うちは静かで落ち着いた宿泊施設じゃないよ? 金もらったってそーゆーのはお断りだからね。いや、金くれるなら……」

「金なら払いますよ」

 岬は普通に財布から札を出してくる。

「…………」

 それを見て、こめかみをぽりぽりかく宗司朗。

「あ、あのね、岬君。いくらなんでも、金払うって。そりゃ君がドSなのは知ってるよ。知ってるけど、金払ってまで人んちでナニしたいってちょっとおじさんにはそういうの分かんないかな。いや、するならそれでいいんだけど。声とか気になるよね。なんせうちにはまだ小さいのが」

「雅がいた方がこっちとしては気楽にやれますよ」

 宗司朗は、さらりとかわす岬を平たい目で見てからまた続ける。

「あ……あのね。子供にそういうこと見せつけたいって大人がいても不思議じゃないよ。けど、実際どうなのそれ? そういうので興奮すんの? 分かんないなー。子供に見せたいなんて、その辺りはおじさん、分かんないなー」

「いいって。まあ、入りましょう」

 岬は宗司朗を無視して、私の手を引き、中へ入ろうとする。

「ちょっと岬君!? いや、いいって一言も言ってないよね!? ちょっと待ってよ!? まだ録画の準備とかできてないしさ! どうせなら録画して楽しんだ方が……」

「何の話ですか?」

 玄関に入り込んでから、岬はようやく宗司朗に聞く。

「いやだから、君たちがうちでナニして、録画するっていう……」

「は? 俺は、雪乃の面倒みてやってほしくてここに来たんですよ」

「えっ!? そっち!? いやちょっと待って!! NTRもドSの一種だけど、ちょっと待ってまだ、心の準備が……」

「何なの?」

 目をこすりながら、奥から雅が出て来た。

「あ、雅ちゃん」

「雪乃さん!! 何で? どうしてうちに?」

 雅は宗司朗に目を向けた。

「あ゛―、子供が起きちゃったよ。どうすんの、これ? 今日はもう無理だよ? 絶対無理だよー。俺的には雅がいない時の方が……」

「何さっきから1人でごちゃごちゃ言ってるんで?」

「雪乃さんどうしたの? 何か用?」

 雅にどこまで伝わるか分からないが、私は、思い切って口を開いた。

「新堂さんの秘書、首になっちゃった」

「…………んで? 面倒みてほしいって、仕事の斡旋か?」

 宗司朗は岬を真剣な眼差しで見る。

「二、三日でいい。ここに住まわせてください。それまでに俺が家見つけまさす。もう寮には戻れないんですよ」

「何かやらかしちゃった? もしかして、2人で逃避行中?」

「いや、そんなんじゃないですけど。……別に追われてるわけでもないし。新堂のヤローが勝手に首きりやがって。そんで、秘書でもねーのに寮にいづれぇし。
それに、ここなら雅がいるからそういう意味で安全です」

「雪乃さん、今日からここで住むの?」

 私は勇気を出して、宗司朗を見上げた。

 彼も同じように見下ろしてくる。

「あの……すみません、私、お金もなくて……」

「炊事洗濯。家事全般こなすこと。それができたら家賃ただにしてやる」

「おぅ、宗ちゃんおっとこまえぇ」

 雅が跳ねて喜んだ。だが、宗司朗はすぐに後ろを振り返り、奥の部屋に入りながら一言放つ。

「隠してることが、何もねぇならな」

「隠し事なんてないに決まってる!」

 雅は嬉しそうに手を掴んでくる。

「私の部屋で一緒に寝よ! ちょっと狭いけど、2人でいた方があったかい!」

 私は手を引かれながら、岬を見た。

 岬は、ただ静かに頷く。しかし、その意味は分からない。

「じゃぁ宗司朗さん、頼みます。明日とりあえずもう一回来るんで」

 宗司朗はもう見えない。

「雪乃さん、雪乃さん」

 私は、雅に掴まれ、靴も揃えずに中へ上がり込んだ。その後ろで岬が帰る音がする。

 隠し事……。大したことじゃない、と思う。けど、もし、先生にここの居場所がバレて来られたら、それは隠していたことになるに違いない。

「……雅ちゃん、私、宗司朗さんに少し話があるんだけど」

「もう寝てるよ」

「寝たかな……。けど、やっぱり言いたいことがあるの」

「……何か、隠し事してるの?」

 雅は澄んだ瞳で見てくる。

「隠し事って言えるほどのことかどうか分からない。けど、宗司朗さんには、全部話しておきたいの」

「ふーん……こっちだよ」

 神楽は、奥の部屋の襖を開けてくれた。

「宗ちゃーん? もう寝た?」

「…………」

「起きてるよ」

「返事してねーよ!! あ……。まあ普通、あんだけ派手に起こされたら目ぇ冴えるわな」

「すみません」

 私は、布団の上で上半身を起こした宗司朗の隣に座り、話を始めた。

「私、ここへ来る前、一緒に住んでいた人がいたんです。でも私、事故で記憶喪失になってしまって。病院でいたんですけど、その日はたまたま抜け出して、迷っていたところを岬さん達に助けられたんです。

 そのまま新堂さんの秘書という大きな役割を与えてくださって、私、今までいた所のことなんか忘れていました。

 それで、さっき、前一緒に住んでいた人……病院の先生が迎えに来てくれて思い出したんです。私の名前は桜だった、病院の掃除婦をしていたって。

 それから、その人は、あまり家には帰って来なくて。家で1人でいることが多くて。待ってばかりだったって。

 それに比べたら、ここは私にもできることがあって。みんな優しくて、いつもそばにいてくれて。とても住みやすくて……帰りたくなくて。

 私、帰らないって言ったら、新堂さんに秘書を解雇されて帰れって言われました。

 でも、どうしても帰りたくなくて。

 ここにいたくて。

 先生にはちゃんと言ったけど……聞き入れてもらえたかどうかは分からない」

「前いた所、酷いことされてたの?」

 雅は真剣な眼差しで顔を覗き込んで聞いてくる。

「ううん、そんなことはないよ。みんな優しくて、優しすぎるくらいで。人懐っこくて。けどみんな仕事が忙しくて。私、輪に入れなくて……」

 宗司朗はそこまで聞くと、布団の中にさっと入った。

「もしかしたら、そいつがもう一回奪いに来るかも?」

「奪うって言い方は違う。けど、先生は私のことを好いてくれていて……踏ん切りがつかないかもしれない」

「…………、雪乃さんは、あのガキの方がいい?」

「えっ、ガキ?」

「岬だよ」

 宗司朗はあくびをしながら言う。

「……分かんない、けど……」

「まあ。ありゃ岬が一方的だって、見りゃ分かるよな。アンタいつも困ってんの見え見えだし」

「…………」

「ま、いいんじゃね? 惚れた腫れたはどうでもいいし、金もらってっし。俺は宿屋のつもりでいるよ。激安家賃の代わりに炊事洗濯すること。けど、炊事洗濯なら前いた掃除婦となんら変わらない気がするけど?」

 宗司朗は少し布団を下げて聞く。

 だけど私は笑顔で答えた。

「全然違います。私、ここが好きだから」

「雪乃さん!」

 雅は嬉しそうに飛びついてくる。

「早く寝るよ! 私、寝相気を付けるから!」

「あ、私ももう寝間着だった。じゃあ、一緒に寝ようか」

「おう、とっとと寝ろ。明日は仕事だぞ。7時起きだ」

「宗司朗さんが7時に起きるんですね。分かりました。雅ちゃんは?」

「私は何時でもいい!」

「嘘つけ!! お前も7時に起きて学校行け!!!」

「あ、ちょっと待って。明日朝ごはん食べられるように、台所……」

「そんなの明日からでいい、いい!!」

 雅に手を取られ、用事ができなくなる。

「宗司朗さん、すみません。明日から頑張ります」

「ってか2、3日だろ?」

「はやくぅ! あのね、この犬は貞治っていう名前なんだよ! 宗ちゃんが王貞治からとったんだー」

 大型の白い犬がリビングで寝そべっていたので、雅は抱き抱え、引きずりながら自室へ運ぶ。

しばらく2人の高い声は静まらず、宗司朗に「うるせー!!!」と怒鳴られてからようやく小声になる。

 こんな日なら、ずっとでもいいのに。

 そう思いながらも、明日の朝になれば雅が来て、もう出る準備をしなければならないのだろうと考えながら寝た。

 なのに翌日、3人はずっと待っていたのに。岬はとうとう約束を破り、現れなかった。