その日は、よく言えば穏やかな日であった。
悪く言えば、特筆することのない平凡な一日である。

多少の非凡さを持って生まれたレイガにとっては、この退屈な日常がどこか窮屈なものに感じることはあるが、バカの一つ覚えの如く、戦に生きる悦びを見出し、その凄惨さに身を焦がすわけでもなかった。
単純に面白みが足りないのだ。
酒でも何でも、もっと夢中になれるものがあればいいとだけ思っていた。

戦は寂しいものだ。

誰かが誰かを殺し、誰かは誰かのために命を差し出す。
残るものといえば、永遠に終わることのない憎しみの連鎖だけである。
学問でも芸術でも他に才能があればよかったのだが、生憎と剣を持ち戦うことでしか、この男がその能力を開花させることはなかった。

乾いた風が小麦色の髪を揺らしていく。
干からびたような民心をそのまま反映させたかのような、この空虚で埃っぽい風は、レイガが今まで生きた二十数年のうちに、一度として変わることはなかった。

仕事がきりよく片付いたので、レイガは城下に出ていた。
午後の喧騒も落ち着いて、街往く人々の表情もどことなく穏やかである。
城下の大通りから延びたわき道を行くと、小綺麗な石造りの町並みから打って変わって、タチの悪い静けさが辺りを支配する。
石で出来た壁面は崩れかかっており、汚らしい布の上にしなびた野菜が載せて売られ、時折ネズミが雨樋を走っていく。
このような場所では、当然、人々の顔つきも違ってくる。
見るからに荒れていて、人を人と見ていないような冷たい視線がレイガに向く。
こういう雰囲気が好きかと聞かれれば、嫌いだとはっきり答える自信はあるが、それを差し引いてもここに来る価値はあるもので、レイガのちょっとした冒険心を満たすには十分だった。

裏通りには裏通りの楽しみ方があるのである。

少し酒をひっかけ、女と会話をする。
それだけでも十分に楽しめるものだが、多少懐に余裕がある時には小遣いを渡してやり、夕暮れと共に連れ立って夜の闇に消える。
特に裏通りに生きる女というのは独特で、毎日掃除や洗濯をして過ごす貴婦人よりはずっと面白い話を持っている。
高貴な家柄の女とは違って、基本的には皆、生きることに貪欲なのである。
どうやって明日を生きるか考えているその複雑な思考は、目に生き生きとした瑞々しい光さえ与える。
女はそれがあってこそだ、とレイガは心底思っていた。
女の容姿のことには、周囲を驚かせる程に疎いレイガではあったが、これには確固たる自信さえ持っている。
そんなレイガだから、もちろん女達の方も放っておかなかったが、見た目が必要以上に美しい女にはあまり近づかなかった。
だから、そういう女の見目について話していたこの時も、多少興味が湧いたのである。

「御兄さん、ネコって知ってる?」

「そりゃあ知ってる。三角の耳をつけた憎たらしい奴らだ」
手で猫の耳の形を作ってやると、女はケラケラ笑った。
「違う違う、ネコってあだ名の女がいるの。最近この辺りをウロついてる若い娘よ」
杯に酒を注ぎ足しながら、女は続けた。
「見た目は……そうね、特別悪くはないわ。有り体に言えば、どこにでもいる顔。けど、とんでもないワルなの」
「ワル、ねぇ」
女の目が細くなる。
「問題はただのワルってだけじゃないから深刻よ。ちょいと小銭稼ぎに人様の財布に手をつけるならまだしも、ネコは自分に小遣いを撒いてくれた男の大事なモンを蹴りつけて、二度と起き上がれないようにしたって話」
「そいつぁひでぇ話だ」
レイガが身を強張らせるような素振りを見せると、女は無邪気に喜んだ。
自分の酒をあおってにやにやと笑うのが、艶かしくもあり、また、この女の可愛らしさでもあった。
「で、面白いのがここから。そのネコはどうしておまんまを投げてくれる男を蹴っ飛ばしたのか?」
「さあな、ワルなんだろ?」
「そう、ワルよ。札付きのね」
レイガの杯が空になったのを確かめてから、女はまた酒を注いだ。
「ウソかホントか、そのネコの前で、ある女が殺されかかっていてね。奴隷の女だよ、ヤバい薬をやらされてる死にかけたような女。で、その女が倒れていたところに、主人である男が現れて、ワケわかんなくなってる女を蹴りつけた」
女の目に不思議な光が灯る。
悲しさとも、寂しさとも違う、どこか遠い目だ。
「男の方はすぐに飽きて、ネコに声をかけたの。金をやるから相手しろってね」
女の声は冷え切っているというわけではなかったが、どこか淡々として、レイガの心をぐっと引き寄せる。
「そしたら、ネコは断った。で、倒れている女に水を与えて、上着をかけてやって、その後」
女の赤い口元が綻んだ。
「ついでみたいに男を殴りつけて、根っこを使い物にならなくした」
そこまで聞いて、レイガは一瞬だけそのネコという女のことを想像した。
男を殴り、女を助けたというのだから、よほど頑強な体を持つ女なのだろう。
加えて、きっと目にはほとばしる様な光を宿していたに違いない。

「御兄さん」

そっと、手の甲に熱いものが触れる。
女の細い指だ。
添えられた白い手は、じっとりとした熱を孕んでいる。
「だから、この辺の女達はみーんなそのネコに共感してるけど、同時に」
きゅっと白い指がレイガの指先を摘んだ。
「御兄さんみたいな変わった旦那が、ネコに熱を上げないか心配してるの」
女の甘ったるい息が頬を掠める。
「あたしも心配してる」
「そいつぁどうも」
レイガの声はそっけなかったが、あくまで声だけだった。
「小銭稼ぎだけなら別に他の旦那でもいいんだけどね」
いたずらっぽい声がレイガの耳をいじる。
「悪かったな」
「ふふっ、冗談よ」
女はふっと体を離して、その黒い目でねだってみせた。
「どうだか」
窓の外は、そろそろ日が落ちてくる頃だ。
開けっ放しの扉の向こうからは、相変わらず乾いた風だけが吹き込んでいた。