わたしは全身に冷たいものを感じて目を開いた。
身体全体がぐっしょりと濡れて、重い。
わたしはうつ伏せになって倒れているみたいだった。
土と錆の匂いが肺を満たしてく。
ぼんやりとした視界は薄明るくて、少し風が吹いているように感じた。
左の頬っぺたにひんやりとした泥の感触。

気だるい。

わたしは、僅かに動かせる右手の指を泥に埋めた。
指から伝ってくる確かなもの。
泥と、わたしがまだ生きてるってこと。

そう、生きてるんだ。

確信した途端、意識がはっきりしてきた。

ヒナちゃん。

わたしは頭にぱっと浮かんだ言葉に反応して、半身を起こした。
一瞬、視界が真っ白になって、頭がくらっとした。
頭を振って数回瞬きをすると、しばらくして眩暈は治まった。
顔を上げ、辺りを見回す。
けれど、何もなかった。
ビルとか建物とか、車とか、電信柱とか、そういう見慣れた、至極ありふれたものがなかった。
人影さえない。
あるのは、靄が漂う薄明るい空と、泥の大地が延々と続く湿地帯。

緩く風が吹いている。
そよそよと、何に阻まれることもなく、どこまでも自由に吹いている。
夢かと思った。
けど、全身水を被ったみたいに、服や髪が身体に張り付いてる居心地の悪さとか、体温を奪ってく泥の冷たさが、わたしの甘い考えを正していく。

夢だったのかな。

今までの全てが。

少なくとも、わたしが日常と思ってることの全てが夢幻だったんじゃないかって思えるくらいに、この目の前の風景はリアルだった。

わたしはすぐそばに泥が盛り上がっているところを見つけて、何気なく、見ようと目を凝らした。
それは、湿地のあちこちに転がっているようだった。
それ以外何も見るものがないから、岩をひとつひとつ、ゆっくりと眺めた。
気が付いたことは、岩はとがった箇所がほとんどなくて、わりと表面が滑らかだということだ。

風が、強く吹いた。
目を閉じて、通り過ぎるのを待つ。
時間はほんのちょっとだったと思う。ほんの一瞬。
風が弱まるのを感じ、目をゆっくりと開いて、泥の大地をもう一度見た。
今の風で靄が薄れたから、もっと遠くまで見えるようになっていた。
けれど、どこまでも同じような風景が続いて、わたしの見慣れた町は、影も形もない。
あるのは、空と、泥と、そして、岩。
一番近くにあった岩に目をやる。
どこか、表面が人の顔に見えなくもないなと思った。
誰もいないから、人恋しいのかな、なんて。
けれど、触れようとしたわたしは、「ひっ!」と声を上げて身を引いてしまった。
身体がひどく冷えて、硬直したのが分かる。
わたしが凝視したそれは、岩は、人だった。
何人かが折り重なるようにして、バラバラに空を仰いだまま、ぴくりとも動かない。
泥に半分以上埋まって、見えているのはほんの少しだけ。

死んでる。

そう直感が告げた。
動けなかった。
ただ、その死体らしいものを目が痛くなる程見てて、気持ち悪いのを自覚するほどに身体がガタガタ震えるのを感じた。
風がどんどん靄をさらっていく。
薄明るかったこの場所に、太陽の光が差し込み始めた。
雲の影がまだらに落ちてくる。
薄青い空、雲の影、泥、埋まった死体。
全ては異常で、けど、気味が悪いくらいに現実的。

僅かに空が揺れた。
違う、地面が揺れたんだ。
どんどん大きくなっていく。
怖くなって、わたしは反射的に目を閉じて身体を伏せた。
どどどどどって、地鳴りみたいな音までしてきて、わたしは一層身体を強張らせる。

ヒュンッ

「っ!!」
わたしのすぐ頭の上を何かが掠めた。

突然、どこからか喚声が上がる。
かと思ったら、ほとんど同時に地鳴りと揺れが爆発したみたいに空気を振るわせた。
音が近くなったことに気が付いて、わたしはつい、顔を上げて前を見る。

遠くに黒い影が見えた。
横に細長い影だ。
それは泥の大地の上を滑る波のように、こっちに向かっていた。
影はあっという間に近づいて、わたしはそれの正体が何であるか、はっきりと捉えてしまった。

馬だ。

競馬のサラブレッドみたいなのじゃなくて、もう少しずんぐりした、黒茶色の馬が隙間なく並んで走っている。
何十頭で済まないと思う。きっと、何百、何千という数でその黒い波は出来ているんだろう。
馬達が迫ってくる。

避けなきゃ。

わたしはフラフラと立ち上がった。

走って。

震える足を何とか一歩前に出す。

どこに?

幅何百メーターの馬の波を避ける。
そう考えただけで、わたしの意思はあっさりと砕かれてしまった。

無理だ。

かくんと膝が折れた。

運動音痴なんだもん。
体育祭のリレーなんて、いつも足手まといなんだから。

馬がここまで走ってくる間に、何百メーターも走るなんて無理だ。
もうすぐそこまで来てるのに、わたしはただ、ぼんやりと馬がわたしを踏み潰しに来るのを見ていた。
馬の毛並みとか脚の動きがはっきりと目に映る。
人も乗っているみたいだった。
並んで、一糸乱れることなく走っている。
だから、いつの間にか先頭に飛び出してきた馬に気が付くのが遅れた。
その馬は、波の中ほどからすっと現れて加速しているようだった。
周りのどの馬よりも赤い馬だ。
こっちへ向かって来る。
人が乗っている。
わたしの方へまっすぐと、波を置いて走ってくる。
赤い馬が迫る。
踏み潰される。
そう思った瞬間、目前で赤い馬は急停止して、くるりと優雅に回ってわき腹を見せた。
続く蹄の爆音。
地面は大きく揺れ、膝すらついていられなくなったわたしは、頭を抱えて泥の中に伏せった。
何千の馬の蹄の音がわたしの両脇を凄まじい音と共に駆け抜けていく。

どれくらいそうしていただろう。
相変わらず地面は揺れていたけど、音はすっかり遠くなっていた。
死んでない。
安堵感が湧いてくる。
わたしは恐る恐る顔を上げた。

赤い脚と黒い蹄が目に入る。
ゆっくり上体を起こして、立ち上がろうと力を込めた。

「大丈夫ですか?」

上から男の子の声がして、馬の背中へと視線を送った。
逆光で少し陰になっていたけど、声の正体がわたしとそう変わらない年の男の子だと、はっきり分かる。
綺麗に染まったアッシュカラーの栗色の髪は少しクセっ気があって、すごく華奢な子だった。
不思議な服を着てる。
ゆったりした着物みたいな朱色の服で、帯はベルトみたいに細くて、簡単な結び方。
その下にズボンと皮のブーツを履いていた。
「大丈夫ですか?」
もう一度問いかけられて、わたしははっとして、上ずった声で「はい」とだけ答えた。

男の子は綺麗な栗色の目をしていた。
髪と違って、少し赤っぽい。
思わず見入ってしまう、綺麗な色。

わたしがその瞳の色に引きつけられていると、急に、身体がふわっと軽くなるのを感じた。