「これ?」

不思議といつも、「女」と呼ぶ客が、何を求めているのか理解できているルース。相変わらず怠そうにチョコレートを指すと、女性客はやはりこくりと頷いた。

面倒臭そうに、チョコレートを数粒、箱に落とすと、いい加減に包んで、当然リボンなんてかけない。ゆらゆら歩いて行き、戸口に立ったままの女性客の手にぽとりと載せた。

いつものこと。

一言の言い置きもなく、その入口から二人で消える。

それも、いつものこと。


なのに、メイは息苦しくなるような胸のつかえを感じる。

今更ながら、マーリンが、女性客につっかかった気持ちを、真に理解できたのだろうと思う。

理屈じゃなくて、嫌な気持ち。

それは、お客さんを嫌なのか、こんな自分が嫌なのか、メイはどちらか判別しかねてため息をつき、どちらにしたって憂鬱だと思う。


「大丈夫?」

気遣う声が聞こえて、まだ開店中の店の中だったことにはっとするメイ。

「ルースとまた喧嘩した?」

「あ……」

ソールが労わるような目で自分を見ていることに気がついて、メイは言葉を探す。下手に話すと泣いてしまいそうだった。

生まれて初めての感情の連続に、うまく心の均衡を保つことができないでいるのだ。

「そうじゃ、なくて」

喧嘩なら、かえってよかった。メイは、少し前に、マーリンを追い返すような言動をとったルースに怒り心頭だった自分を思い出して苦笑いを浮かべた。

喧嘩なら、いつか仲直りできる。

だけど。


「好きになっちゃった」


ソールの目が丸くなり、メイはやはりそういう感情を、すぐに打ち明けるものではないのだということを再び悟ることにはなるのだが。

「え……っと、メイが?…誰を?」

落ちた爆弾に、目を白黒させながら、ソールは慎重に言葉を選ぶ。

「バカ菓子職人、を」

「はっ!?」

爆弾が続けざまに投下されるので、ソールに言葉を選ぶ余裕はなくなった。

「……だよね」

俯いて、無意識のうちにため息を漏らすメイに、ルースは自分の恋が破れたことを、思い知る。

がんがんと痛み始めた頭を抱えて、でもどうしても訊かずにはいられない。

「…なんで?全く意識してなかったよね」

「はい、全く」

メイが、話せば話すほどしょんぼりと萎れていくことが、さらにルースを打ちのめす。

いつも元気いっぱいで明るかったメイに、こんな顔をさせる男がいるとは。しかもそれは自分の兄にあたるだらしない男だなんて。


「…ごめん、俺、どうしても理解しきれない」

「……あたしも」


「え」
「なんでルースなんだろうって本気で不思議がってたら、ルースを不機嫌にさせて、しかも全部が冗談だと思われた」

自分の気持ちをじっくり見据える前に相手に伝えてしまうメイに、ソールは唖然とし、その後、ぷっと小さく噴き出した。

「なあに?」

「メイらしいね」

「ええ?嬉しくないなぁ」

ぷっと頬を膨らませて、ようやくきょろりと目を動かしたメイは、ショーケースの中の商品をきれいに並べ直し始めた。

多少元気になったメイに、ソールは密かに安堵のため息を漏らした。

こんなふうに、メイがいつもどおり、楽しそうにしていられるような男が相手なら、身を引くけれど。さっきのような曇った表情を見せるなら、このまま見守っていられるだろうか、とソールは考えていた。



案の定、メイは日を追うごとに、元気をなくしていった。

それは、ソールはもちろんのこと、常連客や、近所の住人でさえ気がつくほどだった。

笑顔は少なくなり、口数も減り、たぶん食事の量も減ったのだろう、小柄な体は一層小さく見える。


「メイ、一つおごるよ」

ソールは、できるだけ穏やかに見えるよう笑みを作って、メイにその菓子を手渡した。

ちゃんと代金は、自分の財布から出して、店の売上用の籠に入れた。メイが食べる気になるように、小さな箱に入れて、綺麗なリボンをかけた。

「いいの?わ、綺麗。ありがとう」

にこりと笑うメイが、相変わらず愛しくもあり、その彼女を憔悴させているのが自分の兄だということが腹立たしくもある。


「食べてみて」

なんとかその事実を見ないようにして、そう言葉を返す。

「え、今?」

閉店するまでわずかに時間があるものの、雨が降りしきる今日はもう、客は来ないだろうと、ソールは思う。ショーケースの中以外の場所の掃除は、メイと手分けして済ませている。

「うん。もう店は閉めてしまおう」

そそっかしいくせに、妙に生真面目なメイは、状況に応じて仕事を切り上げる、ということが苦手だ。だから、ソールがあえて口調を強めてそう告げると、メイは「わかった」と頷いた。


「わあ、美味しそうだね」
メイがそっと開けた箱の中には、白く粉化粧をしたフォンダンショコラ。

「皿に出したほうが食べやすいよ」

「どうして?」と首をかしげるメイに、ソールは「割ってみればわかるよ」厨房から小皿とフォークを持ってきてやった。

「おいしそー!」

早速生地を割ったメイは、中からとろりと出てくるチョコレートソースに目が釘づけだ。

「んー、幸せ♪」

間髪おかずにぱくりと元気よく一口を食べたメイは、不明瞭な発音ながら、そう言葉を漏らした。

「美味しいよ、ありがとう、ソール」

「よかった」

にこにこしながら、メイがぱくぱくと美味しそうに何かを食べるところを久しぶりに見て、ソールは安堵とともに、一層強い嫉妬を覚えた。

「は!!」

大げさに口元を押さえたメイ。

「な、なに?」

ソールが尋ねると、メイはすっかり平らげてしまった後の皿を凝視したままで呟いた。

「チョコレート、ソース……、作ったのはソールだよね…?」

ようやく気がついたらしいメイに、ソールは苦笑いだ。

「いや、ルースだけど?」

「……うぇえええ!?た、食べちゃった、全部そっくり!どうしよう、どうしよう、ソール、ねえ!あたしルースのチョコレート食べちゃったよ!」

「メイ、落ち着いて、これは」


「うるせーな」


ソールの言葉を遮る低い声が響き、メイもぴたりと動きを止めた。

そして生唾とともに、ごっくんと最後の一口を飲み下してしまった。

「毒でも入ってるみたいな言い方だな」

ゆらりと厨房から姿を見せたルースは、つまらなさそうにメイとソールを交互に見やった。
「価値もわからんガキに食わせるなよ」

そう言われて、ソールは最悪のタイミングでルースが帰ってきたことを痛感した。

案の定メイは、唇を噛んで、その言葉に言い返すことなく俯いた。

「ルースの作るものの価値は、メイが一番理解してるだろ?ただ俺は、メイが食欲をなくし」
「ソール!もうちょっと片付けを手伝ってくれる?あの照明の傘を拭きたいんだけど、あたしだと届かないから困ってたんだ」

メイの心の中の声を代弁するつもりだったのに、そのメイに遮られて、ソールはやむなく口をつぐんだ。

強いアルコールの香りを残してルースはそのまま姿を消し、部分的に落とした照明の傘を、仕方なく拭きながら、ソールはメイを見下ろした。

「いいの?誤解されたままで」

「あ…、うん。最近のルースは、またお酒の量が増えてるから。あんまり刺激しないほうがいいと思う」

「でも」

「いいの!動揺したあたしも悪いし。ところで、あのフォンダンショコラは、どんな魔力があるの?」
それを心配してあんなに大騒ぎしたんだろうと言うことは、ソールだってよくわかっている。


「大丈夫だよ、“いい夢を見る”ってだけだから」


ほっ、とショーケースを拭く手を休めてメイが安堵のため息を漏らすから、ソールはくすりと笑った。

「だいたい、メイはルースのチョコの影響をほとんど受けないんじゃなかったっけ?」

「…そうでした」

がくりと肩を落としながら、メイは、「でも自分の心境の変化で変わるかもしれないしな」と呟いた。

「それって、ルースを好きになったから?」と心の中でだけ言葉を並べて、ソールは小さなため息をついたのだが、メイは気がつかなかった。





「いい夢を見る」って、こういうこと?



口を塞がれたような気がして、息苦しくなったメイは、ふと目を開けた。

まだ熟睡真っ最中の深夜に、自らの意志や睡眠リズムに関係なく、目覚めたメイの意識はぼんやりしていた。

「ん…」

ゆっくりとではあるけれど、しっかりしていく意識の中で、徐々に把握していく状況に、メイは今度は混乱し始めた。


至近距離にルースがいる。

その情報を脳で受け止めたとき、まずメイが思い出したのは、試食したフォンダンショコラのことだった。確か、ソールはフォンダンショコラを食べると、“いい夢を見る”ことができると言っていたから。

しっかりと目を閉じたルースの寝顔が、すぐ目の前に見えて、メイは思わずうっとりと見惚れていた。

夢の中だけでも、こうしてゆっくりと穏やかな気持ちで、ルースの顔が見られるなら、あれは素敵な魔力を秘めたスイーツだと、メイは思った。
「ん……?」

ちゅ、という音とともに、やけに生々しい感触が、唇を覆う。

驚いて、それを咄嗟に押しのけようとした腕は、2本とも頭上で1本の腕に敷かれて全く動けなくなった。

現実なのか、夢なのか、混乱したまま怖くなったメイが、首を振ってその熱い唇から逃れようとするのに、ルースには慌てるそぶりもない。

「やっ、ルース、…ん」

残った片腕で難なくメイの顎を上向かせて、被さるように口づける。

「な、んっ、…や、め…」

強いアルコールの香りに、こっちまで酔っ払いそうだと頭の片隅で感じながらも、メイは必死に言葉を紡ぐ。「何してるの!やめて!酔いすぎだよ!!」と頭ではきちんと完成している台詞が、一向に声にならないで、ルースに消されてしまう。

メイがじたばた暴れるせいか、ルースは珍しく強い力で彼女を抑え込み、それは一層メイの混乱と恐怖を煽る。


ただ、あまりの濃度のアルコール臭に、これは現実なのだということだけは、メイにもよくわかった。

頭の中でだけ、「嫌だ」と言葉をかけても、伝わらない。だけど、きっと声に出せたとしても、泥酔状態の彼には伝わらないのだろうと、メイは思う。

必死に頭を働かせていたメイが、ルースの顎を掴む指の角度が変わったと気づいたときには、すでにメイの唇は自然に開かされていた。

そこを割って入って来たものの舌触りに、メイは驚きでびくりと肩を震わせたものの、それが何かを理解する頃には、すっかり体の力が抜けてしまっていたのだった。


キスって、あれだけじゃないんだ…。

もはや使い物にならなくなってきた頭でぼんやりとそう考える。「あれ」とは、寝惚けたルースがベッドに入って来た日のキスのことだ。それに加えて、メイが高熱を出した夜に、薬を口移しで飲まされた時のことだ。

メイは、唇を合わせるのがキスの全てだと思っていた。もっと続きがあったなんて。メイはその「続き」の真っただ中で、必死で思考を巡らせる。

さっきは嫌だと言いかけたのに。

メイは、そう振り返りながらも、今ではもうすっかり抵抗する力も気も、自分自身にはないと言うことを思い知る。

「ん、……は、…ぁ……」

唇から零れる呼吸はずいぶん荒く、鼻から漏れる声はやけに甘ったるい。恥ずかしいのにそれを止めることもままならない。


嫌なのは、ルース自身じゃない。

メイは、好きだと認めた異性から受けるキスが、こんなにも自分の体に与える影響が大きいものなのかと驚く。

今思えば、薬を飲まされた時の体の熱さや呼吸の乱れは、熱だけのせいじゃなかったのかもしれないということにも、初めて思い至る。

けれど、その反面で、心の一部がどうしたって拒否反応を起こしていることを無視することもできなかった。


「泣いてるの?」


掠れた声で、ようやく言葉を発したルースも、そのメイの拒絶反応には気が付いたらしい。

「俺のこと好きだって言ったくせに」

低い声は、くすりと笑い声まで孕んでいて、メイは余裕がないのは自分だけだと思い知る。

「…言ったよ。でも、嫌なんだもん」

甘く痺れて言うことを聞かない体を自覚しながらも、メイはもつれる舌で、なんとか声を発する。
「キスが?」

そうじゃないけど。

あえてそれは言葉にしないで、メイはぼんやりと閉じかけていた目蓋を持ち上げて、ルースの目を覗いてみた。

「ルースのこと好きだって言う人みんなに、こういうことを、するんでしょ?」

ソールが、店に来る「女」たちが、ルースと消える理由について、言葉を濁しながら「道ならぬ恋に落ちたら、その相手の代わりに、恋人のように接している」と言ったことを、鮮明に思い出しながら。

「だとしたら、何?」

ルースはふっと笑いさえ浮かべるのに、メイの目には涙しか浮かばない。

はっきり認めないけれど、それを肯定することを匂わせたうえに、こちらの気持ちだけ確認しようとしてるみたいで、ルースはずるい、とメイは思う。


「だとしたら、嫌なの」

たとえ彼がずるくても、あたしは本当のことしか口にできないんだ、とメイは馬鹿正直な自分を呪いながら、泣くことしかできない。

「今はそんなこと気にしなくていいんじゃねーの?」

ちょっとくらい慌てたり取り繕ったりすればいいのに、と思うメイの気持ちをよそに、いい気持ちで酔っ払っているらしいルースは、無駄にきれいな微笑を浮かべてくる。


「気に、なる」

そう言うのに、近づいてくるルースの唇を、メイは両手で隠しつつ押しのけた。

「嫌なの。なんか嫌な気持ちになった。もうキスしない」

渾身の努力を持ってして、その誘惑を撥ねつけつつ、「キス」という気恥かしい単語を口にしたのに、ルースはとうとう声を上げて笑い出して、こう言ったのだった。

「ほんと、ガキだな。色気ねーの」

ムッとするけれど、涙目のメイには何の迫力もない。むしろ、可愛く見えるから困ったものだ。

「せっかく周りに他の女がいないときに、こんなチャンスがあるなら、上手く誘えねーの?」

くつくつと笑い続けるルースに、メイはいよいよ腹が立って来る。

「さ、誘えるはずない!そ、それに、今だけ、女の人がいないからって…」

続きの言葉を慌てて飲み込んで、メイが俯いたのに、ルースは悪魔のごとく意地悪く笑って、こう促すのだ。

「いないからって、の続きは何だ?永久にお前としかキスしねーって言えばいいのか?商売にならねーけど」
言えばいい、という問題ではない。

商売が、ルースの恋愛ごっこで成り立つ、というのがおかしい。

メイは、頭の中ではそう反論するのに、至近距離にいるルースにその言葉を投げつけるのはためらわれた。

だって、それは。


「お前、俺を独占したいんだろ」


そうだらりと緊張感のない声で言われて、メイははっとした。

「他の女とべたべたしてるのかと思うと、イライラするんだろ」

うっすらと視界にベールをかけていた涙が、もこりと盛り上がってはぼたぼたと目尻から耳の方へ流れて行く。


「そうだよ」

人の声みたいに、自分の声が響くのを、メイはどんどんと鳴り響く心臓の音の間から聞いていた。
「たくさんのお客さんの内の一人なんて、嫌だよ」

そうやって、仕方なく認めた感情は、しっかりとした形になってしまい、メイの口から言葉になって飛び出してくる。

「一番好きな人に、一番好きだと思ってほしいのって、そんなに笑うほどおかしなこと?」

イライラするのは、他の女の人に嫉妬しているから、というだけではないと、メイは思う。

「当たり前のことでしょ?大好きな人に、気が向いたときだけ大好きだよって言ってもらったら、ルースは満足?いつでも大好きだって思われたら、もっと嬉しいんじゃない?」

イライラするのは、人を思う気持ちに関する認識に、メイとルースとのあいだで大きな差を感じるせいだ。

そこをなんとか埋めようと、熱が入って来たメイに、ルースはふっと微かな笑みを漏らした。

その笑みは、さっきまでのからかうような意地悪い笑いとは異なっていて、メイはそれ以上の抗議をし損なう。


「そこが、ガキだって言ってんだよ。ほんと単純。だから、苦手」

メイがまじまじとその目を見つめ返したとき、ルースは珍しく目を逸らさなかった。
そして彼の笑みは、その目は、ずいぶん冷たい色を帯びて、彼女を見下ろしていたから。


「俺、メイのこと、苦手なんだよ」


そう真顔で言われた時に、メイはひどく驚きはしなかった。だが、やはりその衝撃は大きかった。


息もできずにただ目を見開いていたメイは、いつの間にか自分から離れていたルースがパタンと閉じたドアの音で、「これで終わり」だとぼんやりと自覚したのだった。