「え?」

メイは、不意打ちを受けたような顔で、マーリンを見つめ返した。

だから、マーリンは、いっそう自分の胸がちくりと痛みを増すような気がした。

「そろそろ山に帰るって言ったの」

その痛みをねじ伏せて、マーリンははっきりとそう告げた。


「そ、っかぁ!学校も始まるしね!あたしもすっかり元気になったよ、ありがと!」

慌ててにっこりと笑顔をとりつくろうメイに、マーリンは気づかれぬよう小さなため息をついた。

本当は、もう少しいて欲しいくせに。メイの我慢はますます板についてきたと、マーリンも思う。


「こんにちは…」

そこにタイミング悪く、常連客がやってきたから、マーリンは無意識のうちに険のある顔になってしまった。

「ルースは」

ソールから、ルースを訪ねてくる女性客の意図を聞いてから、メイも彼女たちに何と言葉をかけたらよいのか迷うようになった。

「は、はい。お待ちくださいね」

何とかそう言って、メイがルースを呼ぼうと厨房に入った後のことだ。


「あなた、本当にチョコの魔力が目的なんですか」

「えっ」

マーリンがそうやって女性客を問い詰めたのは。



「あー、『女』ね。わかった」

メイが呼びに行くと、午後になってもまだ自室のベッドでだらだらと浅い眠りを貪っていたルースが、だるそうにそう答えた。

来客を『客』と呼ぶときは、ルースが店を出て行かない。『女』と呼ぶときは、ルースは店を出て行く。メイにも、その小さな違いがわかるようになってしまった。

ソールから聞いた彼の家庭環境や、現状を思い返すと、なんとも複雑な気持ちで、メイは階段ととぼとぼと降りていた。が、その中腹で、誰かが言い争う声を聞いて、はっとした。

何事かと慌てて店に飛び込むと、声の主は、さっき来店したか弱い声の女性と、マーリンだったのだ。


「あなたに用事はないのよ!!さっさとルースを出しなさい!」

「だから、そんな魂胆なら帰れって言ってるでしょう!!」

メイが、ふたりの様子に、見間違いじゃないかと固まっているその脇を、するりと酒臭い男が通り抜けた。


「はーい、ごくろーさん」

修羅場に、全く緊張感のないだらしない笑顔で、ルースが割り込んだ。そして、マーリンの手に一粒のチョコレートを握らせた。

あっけにとられているマーリンに背を向けると、こう言った。

「俺の客、そういう扱いするなら、お前が帰って」

やや足を引きずるような、だらしない歩き方はいつものままなのに、ルースのその声は乾いて冷たかった。

ちらりとマーリンを見やることさえないのに、その背中は全力で彼女を拒絶しているみたいに、女性客とともに店のドアから外に消えてしまうのだった。


「…なによ。ちょうど帰るところよ」
マーリンの震える声に、メイはようやく我に返って、はらはらした。

「ご、ごめんね。マーリン。どうやら、ソールが言うには、ルースも常連さんに依存してるらしいの」

いつの間にか、厨房につながるドアのところに立っていたソールが、「そうだよ」と言ったから、メイはびくっと肩を震わせた。

「このチョコレートは何?どういう意味があるわけ?」

とげとげしい声でそう問うマーリンに、ソールがゆっくりとこう告げた。


「“恋が終わる”」


その瞬間、マーリンの黒目がちな美しい瞳から、ぽたりと大きな滴が落ちた。




「なに、お前、メイのくせに拗ねてんのか」

おかしそうにルースが笑うから、メイはルースと口を利かないと決めたのに「ほんとに頭おかしいんじゃないの!」と叫びそうになった。が、それを必死でこらえた。

なんで笑っていられるんだろう。信じられない。そう思いながら、メイはぷいっとルースから顔を逸らせた。


好意を寄せていると知っていたくせに。マーリンを故意に傷つけた。


メイは、体調を崩した自分の窮地に、駆けつけてくれた親友が、痛手を負って故郷に戻ったことを思うと、辛かった。


「お前、頭おかしくね?」

「はあああぁぁぁ!?」

さすがに、こちらが投げつけたいと思っていた言葉を吐かれると、メイは黙っていることができなくなった。

「だから、お前、考え方おかしいだろ」

まじまじとその鬱陶しい髪の毛の下の目を見つめ返すけれど、ルースには全く動揺する気配がなかった。

「ばっ、ばっかじゃない!ほんとに変人!!非常識!!ひっどいおっさん!」


「……てめー……」

堪えていた言葉が一気に噴き出すメイに、わずかにルースは傷ついた顔をしたものの。

「お前の友達、店番手伝ってたんだろ。客選ぶ権利はないはずだ。そんなこと許したら店が潰れる」

「お、お酒飲んでるくせに!!」

「あ?」

「……お酒、飲んでるのに」

勢いをそがれながらも、なんとかメイはそう言った。

「まともなこと言っただろ」

ふふん、とせせら笑うルースに、メイは「偉そうにするな」と言い返すことができなかった。
「じゃ、じゃあ、どうして、あのトリュフ」

メイが、せめてもの反撃、と思ってそこまで呟いたものの、「食べさせたの?マーリンがルースを
好きなこと、わかってたでしょう?」と、続きをはっきりと言葉に出すことはためらわれた。

もごもご言っていると、ルースはケタケタ笑い出す始末。

マーリンは、あの後、半ば自棄になって、ぱくりとジンジャートリュフを頬張ると、「帰る」と言い残して消えたのだ。

「じゃあ、お前さ、振り向きもしない男を、いつまでも思っていたいの?」

「へっ」

「どんなに好きになったって、恋人になってくれない奴のこと、好きでいるのって辛いんじゃね?」

「そっ」

そんなこと言われてもわからない、とメイは思いながら、ルースの言葉の意味を必死に考えた。


「好きに、なってもらえるかも、しれない」

「はあ?」

「マーリンは、素敵な女の子だから。ルースも、そのうち好きになるかもしれない」

自分のことに置き換えられるとさっぱりわからないけれど、マーリンの魅力に関してはよく理解しているメイは、そうはっきり言うことができた。

なのに、ルースはますます笑うのだ。何か面白い話をしているかのように。

「俺?ないない。女なんて、割のいい商売相手としか思えないもーん」

呆気に取られていたメイが、自分なりの思考回路を取り戻すには、少々時間がかかったものの。


「…そうかな?」

やはり、それはおかしいんじゃないかと思った。

「好きな者同士、商売なんて関係なく、幸せな人たちだってたくさんいるよ」

メイは、それだけはよくわかるのだ。

「一見そう見えるだけだろー?あれはまやかしで、すぐに壊れるんだよ」

そう言うルースが、いつの間にか笑みを収めていることに、メイは気が付かない。


「違う。ママは、死ぬまでパパのことが大好きだった」


父親が死んだときの母親の憔悴ぶり、そこから立ち直って父の生業だった花卉栽培を引き継いだその熱意、その様子をメイはまだありありと思い出すことができた。

ふわぁ、と忌々しい欠伸を見せつけて、ルースはゆらりと背中を向けた。

「聞いてるの!?ルースは間違ってるよ!!」

きゃんきゃんと、いつもの調子を取り戻してメイがわめくのに、ルースはめんどくさそうにこう言っただけだった。

「なんか疲れたわ。一杯飲んでもう一回寝てくるわ」

「は!?ちょ、そろそろ、マドレーヌの追加でも作って!!こら!菓子職人だろ!!」

全く聞く耳を持たずに、ルースは再び自室へと消えてしまったのだった。