「だからさ、張り切り過ぎだ、お前は」

呆れ声で、そばにいる人物がルースであると言うことが、ようやくわかると言う始末。

「んん」

深夜、内容はよく覚えていない夢にうなされて目覚めたら、すっかり体調が悪くなっていることに気がついて。


「そんなにソールとのデートに浮かれたのか?」

熱がこんなに出たのは何年振りだろう、と言うくらいに全身が発火しそうな温度。体のあちこちがみしみしと痛む。


「キスくらいした?」

“キス”とか、どうしてそんな気軽に口にできるんだろう。

カーッと頭部に血が上ってくるように感じる。怒りなのか羞恥なのか、よくわからない感情を、言葉にすることもできずに、メイはうっすらと目を開いてルースを睨んだ。

「してないのか?っていうか、何で涙目なんだよ」

“くらい”ってなんだ、って頭のどこかで思う。キスくらいって。

馬鹿。エロ菓子職人。毒づきたいのに、喉が痛くて声も出せない。

「熱のせいか。うん」

くつくつと笑いながら相変わらず緊張感のないルースにそう結論付けられても、メイは熱い呼気を吐き出すのみだ。
「すげー熱い。ほんと、馬鹿だな」

急にきゅっとメイの右手を握ったと思えば、ルースはまたけたけたと笑い始めるから、苦しい息の下で、さすがにメイもムッときた時だった。


「こんなガッサガサで、水とか沁みねえの?」

「はぁ」

ルースがふいに、メイの右手を大きな両手で包んだから、投げつけようと思っていた文句はただのため息に変わってしまった。

「ひでー、俺よりよっぽどおっさんの手だぞ」

軽口をたたくルースにの表情を見ようと、なんとか視線を向けたものの、視界は滲んでいてよくわからない。

辛辣なルースの言葉の通り、メイの両手はひどく荒れて、ひび割れだらけだった。

「あり、がと」

痛みが和らぐのは、ルースが塗ってくれる薬かクリームかのおかげだろう。喉が痛むことを忘れ、思わずそう呟いていた。

「厨房の洗い物、そんなにきつけりゃソールにやらせろよ」

メイはわずかに首を横に振った。
「前から、だから」

母とともに花の手入れや梱包をしていたし、母が寝込んでからは、炊事や洗濯に加えて看病のせいで、年齢が嘘のように強張った皮膚になってしまっていたメイの手。

「顔に似合わず苦労してんのな」

顔はどれだけ能天気だって言うんだ、という呟きも頭に一瞬浮かんだだけで、燃え尽きたように消えてしまう。

苦労したと思ってはいない。ママさえいてくれれば、あたしは幸せだった、と考えたところでメイは久しぶりに胸が痛んで息を詰まらせた。

むせ返り、喉の激痛に眉根を寄せながらも、ママのことをありありと思い出すのは久しぶりで、自分がずいぶん弱っているのだと、メイは認めざるを得なかった。

ルースは、そんなメイの様子にも、普段とは変わらないだるそうな様子で、無造作にメイの左手も掴み、同じようにマッサージをする。


気持ちいい。


両手に常に感じていた引き攣れるような痛みが、ルースの手の体温とともに和らいで、メイは次第にうっとりとしてきた。
熱のせいで元々朦朧としていた意識は、休もうとする体のせいと、手の気持ち良さで、今は途切れ途切れになってしまっている。

「も、いい、よ」

ずいぶん長い間、手を撫でてもらっている気がして、眠りに落ちる前に、メイはそう声を絞り出した。

「寝る?」

ルースの声に、わずかに頷いたかどうか、というとき。

ちゅ、という音とともに、忘れかけていた感触が、メイの唇に落ちて来る。何でこの高熱のさなかに、こんな夢を見るんだとメイはうんざりする。

それなのにその音は何度もメイの耳に届いて来る。幻聴か。

さらには、その感触まで何度もメイの唇に降ってくる。幻覚か。


うんざりだ、いい加減に、ちょっと、ええっと……、はあ!?

「う!?」


ぱっちりと目を開けたメイにも、全く動じる様子のないルースは、まだ繰り返して口付けている。
「やめ、なに、し、…、ん、…う、ん……」

ただでさえ動悸がしていたのに、今では呼吸がしづらいほどだ。意識が全部唇に集中してしまったみたいに、頭や体がぐったりしてしまって働かない。

ちゅ、とメイの唇を吸いながら、ルースは右手で彼女の左手を握って、左手は彼女の頬に添えている。

「へえ、そんな顔になっちゃうんだ?」

意外そうに言いながら、ルースが珍しくメイの顔を覗きこんでくる。


「な、に、してんのよ!」

メイは、強い調子で言ったつもりが、どこか舌っ足らずな印象の声が、恨めしいけれど。

「何って、薬飲ませようかと」

ぺろっと舌を出して、その上に白い錠剤が2粒乗っているのを見せるルース。

「んむ!」

ぶちゅっと露骨な音を立てて、ルースが押し込んだ薬を、メイは口に含んでなんとか飲み下した。腫れる喉を通過するのはずいぶんな痛みを伴うのに、その喉のどこかで錠剤が留っているような不愉快な感覚がある。

「んっ」

すると、今度はぎゅっと鼻をつままれて、少し口を開いたところにぬるい水を口移しで飲まされる。

必死でそれを飲み込むと、メイは再び涙目になっていた。


「いてっ」

わずかな力を振り絞って、メイは拳骨をルースにお見舞いした。

「初めから普通に飲ませろ!馬鹿!風邪うつるでしょ!!も、変態!キス魔!!」

ガラガラ声で、喉の痛みも気にしていられずに、メイは一気にまくし立てた。そして、猛烈に咳き込む結果となった。

「しょうがねーじゃん。お前何も食えねーだろ。だいたい前にもキス魔だって教えただろ?マジで悪魔の血が入ってるしな」

けけけ、と変な笑い方をするルースに、メイは脱力して「そんな自虐ネタ、おもしろくない」と言い返す元気はもう見当たらなかった。


「ちょっと元気出たか?今のはお前らしかった」

滲んで次第に狭く閉じられて行く、メイの視界で、ルースが嬉しそうに微笑んだ気がしたけれど、今度こそ底なし沼のように深い眠りへと、メイは引きずり込まれたのだった。


「メイ」

重い瞼をゆっくりと持ち上げたとき、見慣れた人の顔があり、メイはまだ夢を見ているのかと思った。

「マーリン?」

が、声を出すと、相変わらずひどく喉が痛んで、どうやら現実にいるらしいということは理解ができた。


「大丈夫?」

「う、ん」

そう答えながらきょろりと周囲を見回してみると、相変わらず何もない、洋菓子店の2階にある物置だった小部屋だった。


「ふふ。びっくりした?」

にっこり笑うマーリンは、この数カ月で、また大人びていて、メイは眩しいと思った。

「どう、して?」

マーリンは、「べべ」と呼んだけれど、深緑の鳥は飛んでは来なかった。だけどそれで、メイは大方の事情を察することができた。

メイは、ときどきべべにマーリンへの手紙を預けていたからだ。マーリンからの返事も持ってくるから、きちんとべべが取り次いでくれているとは思っていたが。

「いないんだ?まいっか。手紙に熱が出て来たって書いてたでしょ。それからぱったり手紙が来なかったから。相当辛いんじゃないかと思って」

それにしても、自分のことをよく理解してくれている親友に、メイは胸がじんとなった。

「しゃべらなくていい。喉が痛いんでしょ。ちょうど夏休みだから、看病も店番も手伝うよ」

「ええ!?」

しゃべらなくてもいいと言われたにもかかわらず、メイは大きな声を上げてしまった。

「バカ。大人しくしてないと治らないよ。大丈夫、そのつもりで出て来たから、親にも言ってある」

再び胸がじいんと痺れて来るメイ。


「ところで、お店にいた長髪のお兄さんが、ルース?」

内心ではおじさんなのに、マーリンは気を遣ったのかなと思いながらも、メイはこくりと頷いて見せた。

ルースの困った奇人ぶりは、マーリンへの手紙のいいネタだった。だから、彼女の記憶にもしっかり残っているのだろう。
ああ、そう言えば、今何時だろう?

マーリンが店と言ったのだから、開店時間はとっくに過ぎているのだろう。それに、もし朝だとしたら、ルースは寝ていないんじゃないだろうか。

だって昨日の夜は。

そこまで思考が巡ったところで、メイはちょうどそれを中断することになる。マーリンの台詞のせいだ。


「私、一目惚れしちゃった」


前の言葉を受けるなら、マーリンは、ルースに一目惚れしたと言うことだ。メイは、今度は言葉を失って、あんぐりと口を開けることしかできなかった。



「ガキは起きたのか」

だるそうにゆらりとドアにもたれているのは、ルースだった。相変わらず、覇気のない表情から、メイは、マーリンのびっくりな発言は聞かれずに済んだのだろうと判断し、安堵した。

「む」

それにしても、ガキってなんだ。
メイは、マーリンと同じ歳だからこそ、いつも以上にムッとした。

だって、明らかにルースはメイしか見ていなかったから。

ムッとしながらも、マーリンの方をちらりと見やって、やっぱりガキは自分だけだったと思い知らされて、がっくりと肩を落とすことになる。


「へえ。ちょっとは元気になったな」

どこがどう元気なんだと反論しようと振り返ったのに、目を細めるルースが、なんだか優しい表情に見えて、メイがどきりとしたとき。

「食っとけ。それくらい、食べれんだろ」

ガッチャン、と割れかねない勢いで、ガラスの器の載ったトレイを机に置いて、ルースはメイの返事も待たずに消えた。

しばらくの後に、バン、と無造作にドアが閉められる音がしたのは、ルースの寝室からだろう。


「…私も、食べていいってことなのかな?」

いつも羨ましく思う、長くてさらさらした髪を揺らし、マーリンが笑った。その顔立ちも、表情も大人びていて、メイはずっと憧れていた。

メイは、さっき派手にぶつかりあったガラスの容器が、2つあることに気がついて、頷いて見せた。


「はい、あーん」

半分おどけてマーリンは、メイの口元にスプーンを運んでくるけれど、メイはわずかな笑みを浮かべることしかできなかった。

まだ体が辛いのもあるけれど。

こんなふうに、幼い頃介抱してくれた母親を思い出すからだ。

無意識のうちに開いた口に、そっと差し入れられたスプーンには、甘いプリンが載っていたらしい。

卵の香りと、優しい甘さが、ふんわりと口いっぱいに広がって、そこで溶けてしまう。

喉がひりつくように傷んだり、そこにつっかえたりすることなく、口にしたものがそのまま栄養として吸収されていくような感覚に、メイはほうっとため息をついた。

沁みわたる。

……そう感じた瞬間、昨夜の、両手のマッサージと一連の出来事を思い出して、メイは瞬時に脳味噌が湧いてしまったんじゃないかと思った。


「…あれ?また熱上がってきた?」

不思議そうに言いながら、マーリンがメイの額に手を乗せた。

なんとか首を横に振ってごまかしながらも、メイは、あの変態菓子職人、何考えてんだ!!と怒りを新たにしたのだった。



「俺も、もう少し長い時間来るからいいよ」

ソールが、意外にも、マーリンの手伝いの申し出を断ったから、メイは驚いた。

いつもは、ローランド洋菓子店で開店作業まで終えてから、ここに来るのが習慣だった彼が、ずいぶん早くに来たものだと思ったら、メイの部屋に見舞いに来てくれたのだった。

「あ、でも」

メイは、親友の好意を無駄にしたくないやら、ソールに負担をかけたくないやらで、何かを言い募ろうとした。

「そう?じゃあ、メイの看病に集中することにする」

しかし、あっさりとマーリンが意見を翻したものだから、ソールも「お願いするよ」と応じて、ふたりは役割分担することとなった。


「もう、いいよ。元気になったから」


メイは、そう答えた。

不思議と体力も戻ってきたらしく、体を起こすことができるようになってきたのだ。喉の痛みや鼻詰まりは相変わらずひどいものだが、頭痛や熱が、ずいぶん楽になった。

「あのプリン、すっごくおいしかったものね」

マーリンが、うっとりした表情を浮かべてそう言って、初めて、メイはプリンのおかげもあるのかもしれないと思い至った。

「うん。おいしかったね。ああいうベーシックなお菓子で、十分やって行けると思うのにな」

メイがそう言うと、マーリンが首を傾げたから、ルースの作るチョコレートの魔力について、一通り知っていることを説明してやった。


「…と、言うわけだから、なかなか危険なお菓子らしいよ。あまり近付かない方が」

まだ話の途中だったのに、すっくと立ち上がったマーリンは、こう言った。

「私、オレンジピールのチョコがけ、買ってくる!」
「はあ!?あたしの忠告聞いてた!?」

メイは唖然としたが、あっという間にマーリンは、階段を駆け下りて行く。

オレンジピールのチョコがけの、効果は、“恋に落ちる”だ。

慌ててメイは体を起こし、ふらふらと店の方へ向かう。


「え、俺が食うの?」

くすりと笑う声が聞こえた。

あ、駄目だ、とメイは思った。

程度や頻度はいくらか減ったものの、まだルースはアルコールと縁が切れない。今日は結構飲んでいるらしい、と、その声でメイは判断ができた。

「はい。食べてください」

マーリンがいくらか緊張しながらも、にこっと笑って差し出している物は、案の定オレンジピールだった。

仕方なしに口を開けたルースだけど、ぱくりとマーリンの指まで咥えてしまったから、さすがにマーリンもびくっと体を震わせた。

「あっ」

マーリンの細くて長い指を、ぺろりと舐めたルースの表情が、どこか妖艶で、メイはぽかんと口を開けて眺めていた。

「何?そんな程度で驚いていて、俺を誘惑なんかできるわけ?」

くすりと楽しげに笑う男は、確かに悪魔に見えて、傍で見ているだけなのに、メイは目眩がした。



「そこのガキは、熱下がったのか」

気が付いた時には、いつも通りの面倒くさそうな表情のルースが、自分の方を見ていたから、メイはさっきの一連の出来事は白昼夢だったのかと思った。

「あた、あたし?熱、熱か!そう言えば、ない気がする。ああ、そうだ、プリンのおかげかもしれない。ありがと。
うん、でも、もうちょっと食べたかったけど。いや、本当はもっと食べたい。
あれ、お店で売らない?ん?あれ?何の話してたっけ」

明らかに動揺しているメイの言葉は支離滅裂だ。

「…まだ脳味噌やられてんな。お前、看病してくれるんだろ。
そいつ、強情で、絶対痛いとか辛いとか言わねえの。強情って言うか、ひどい鈍感なのかも。
とにかく、マジ面倒くせえ病人だからさ、頼んだ」

「ちょっ、ちょっと、病人に対する表現があちこち失礼だよ!!」

メイはきーっと怒ったけれど、「あ」と立ちくらみを覚えて壁に縋りついた。


「無理しちゃだめだ。ルースも、今は、メイをわざと刺激するのをやめて」

どこからかソールが現れて、そっとメイの肩を抱いて支えた。

その手が思っていたより大きくて力強かったから、メイはごくりと生唾を飲んだまではいいのだが、盛大にむせた。

「ほら、まだ起きちゃだめだろ」
「い、いや、…ごほっ、それ、は、げほっ」

ソールのせいだから、と言いたいのに言えない。そのまま、メイは赤い顔をして肩を抱かれたまま自室に引き上げることとなった。



「彼さ、メイに気があるんだね」

ドアを閉めるなり、マーリンが事もなげにそう言うから、メイは再び咳き込んだ。

「何動揺してんの」

くすくす笑うマーリンに、昔から男の子にモテた彼女にはわかるまい、と思いながらもメイは喉をなだめるのに精いっぱい。

「爽やかな好青年、って感じじゃない?メイとも合いそう」

「へえ?」

「何その他人事みたいな返事」

「合うとか合わないとか、全然わからないんだもん」

「ほんと、奥手だよね、メイは」

「はあ?」


「だって、好きな男の子がいるって騒いだりすることもなかったし、クラスメイトや幼馴染だって、異性として意識もしなかったよね」

「う」

図星をつかれて、メイは黙り込んだ。

「そこはメイの長所でもあり、短所でもあるよね」

「そうなの?」

「そうよ」

マーリンの笑みは、ずいぶん大人びていて、やっぱり同じ歳だとは思えない、とメイは思う。親友だけど、憧れや尊敬を持って、彼女を見ている。

「あんなかっこいい人と一緒に暮らしていて、どうして好きにならないでいられるんだろう」

単純に不思議そうに、マーリンが言うから、メイはフリーズしてしまう。

「…おじさんのこと?」
「…おじさんって誰?」
「ルース」
「…若いでしょ」
「40歳くらいじゃないの」
「は!?」
「……って言ったら、真面目に落ち込んでたけどね」
「メイはどこにいたってメイだね」

マーリンは声を上げて笑いだした。
「ええ?意味がわからない」

メイは困惑気味だ。

「都会に行ってしまって、全然違う環境にいるのに、やっぱりメイなの。元気で、明るくて、いろんな人を振りまわしているように見えるけど、実際には楽しませてる。メイがいない村は、静かでつまんないよ」

お姉さんのように、マーリンが、メイの頭をよしよしと撫でた。

「なんか、うるさいヤツって聞こえたような気もするんだけど…」
「言った気もするんだけど」
「マーリン!」
「ふふっ」

ふと、メイは涙ぐみそうになった自分に驚いた。

こんなふうに、同世代の女の子と、遠慮なくおしゃべりをする時間を持ったのは、久しぶりだ。

「あたしも、マーリンが傍にいないとつまんないよ」

洋菓子店で働く日々に、大きな不満はなかったが、仕事から完全に切り離された時間を持って、心を許せる人と言葉を交わすことに、こんなにも飢えていたのかと、今更ながら自覚した。
「でしょ。しばらくいてあげる!」

定休日も、必要かも。

はじめてメイは、ソールの言っていたことを理解するのだった。


「その間に、なんとかルースを振り向かせてみせる!」

と、マーリンが声高らかに宣言したから、メイは頭痛がぶり返した気がした。



「…ねえ」

マーリンが、店先で、ふと低い声を漏らすけど、メイはその声音には気が付かず、ケースの中のチョコレートを綺麗に並べ直しながら「んー?」と呑気に答えた。

なにせ、およそ1週間ぶりに、ようやく店で売り子をするのだ。

マーリンとの時間を楽しんでいる間は、お休みって素敵だと思っていたメイも、こうして店に出ると、お菓子を売る仕事ってやっぱり楽しいと思う。



「ルースのところには、やたらと女性客が来るよね」

ああ、そうか。

男女の機微に疎いメイだって、それがマーリンのライバル意識だか嫉妬だかによる、視点だと言うことは理解ができる。

「だね。ルースのチョコの魔力を借りたい人たち、らしいよ」

どこか不安そうな、でも期待を孕んだ眼つきでルースを見る女性客は、必ずチョコレート菓子のどれかを買って行くのだ。

以前のソールの説明から察するに、何か困っていて、依存するかのようにチョコを求めているんだろうということは、メイも理解していた。

「なら、チョコレートだけ買えばいいんじゃないの」


ぽつりとマーリンが呟いて、メイはまるで自分が責められているような気がして、胸がびくりとした。

「あ…」

それも、そうだ。

今更ながら、メイは気が付く。チョコを買いに来るお客さんとともに、ルースがいつも店を出て行くことに。

マーリンの指摘はもっともなことでもあるけれど、かといってメイにも、その理由なんてわからない。


メイが黙り込んだのを見かねたのか、冷まし終わったクッキーを持って来たソールが、ふいに口を開いた。

「慰めてるんだよ」

そこにソールがいるとは気が付いていなかったメイは、びっくりした。
「どういう意味?」

マーリンが顔をしかめたが、ソールは「そのままの意味」と言った。首をかしげるメイに、困ったような顔になったソールは、仕方なさそうに説明を始めた。

「あくまで推測だけど。たとえば、恋人と思うように会えず寂しい人には、リキュール入りのチョコレートを食べさせて、まるで恋人のように接してやる」

メイは、ぽかんと口を開けた。

「恋人が欲しい人には、オレンジピールのチョコがけを食べさせて、一時的に疑似恋人を演じてやる」

マーリンにさえ、奥手と評されたメイは、いよいよソールの話の内容について行けなくなってきた。


「それに、元々人間と悪魔が惹かれ合いやすいっていうのは、知ってるよね?」

…知らない、とメイは心の中だけで呟いた。

いろいろと驚いていて声が出ないせいもあるが、マーリンが、さも当然と言うように頷いたために、知らないとは言いにくくなった。

「だけど、種の交わりを避けるためなのか何なのか、最初の接触は同種でしか駄目なんだ」

一層きょとんとした顔になったメイに、ソールは迷ったが、これ以上の説明はできそうになかった。

見かねたマーリンが、メイにそっと耳打ちをする。

「たとえば、初恋も、ファーストキスも、人間は人間としかできないってこと。悪魔も悪魔とだけ」

かあっとわかりやすく頬を火照らせたメイに、ソールはまた見惚れるが、はあ、とため息をついて気を取り直した。


「だから、人間と悪魔のハーフである、ルースが懸け橋になる」


ソールがそう言うと、マーリンが「ひどい」と呟いた。何がひどいのかよくわからなかったメイは、戸惑いながら、マーリンの顔を見つめることしかできない。

「たとえば、人間の女が、悪魔の男と恋に落ちても、ファーストキスはできないってこと」

呆れ顔で、もう耳打ちも面倒だという顔で、マーリンが説明した。
「そ、それのどこがひどいってこと?」

それならそれで仕方がないんじゃない?と続けそうになったメイは、げんなりとした顔になったマーリンを見て、口をつぐんだ。

「理屈抜きで種族を越えて強く惹かれてしまうのに、どちらかに経験がなければ、手を繋ぐことさえできないんだ。なんとかしたいって、きっと考えるだろ?」

ふっと笑って、ソールが噛み砕いて説明を始めた。

「他の町では、もっと混血が進んでいるところもあるし、それほど問題にはならないだろうけど、この町の住人は人間ばかりだね?そこで、ルースの存在が必要になってくる」

メイは、よくわからないまま、ごくりと生唾を呑んだ。

「国を治めているのは、悪魔なんだから、彼らも視察や紛争解決なんかのために、各地に出向くだろ。この町に来たときに、人間と恋に落ちるわけだ」

それはそれで、おとぎ話のようで素敵に見えるな、とメイは思うけど、そんな能天気なことを言いだせそうな雰囲気でもない。

「恋人と今よりも親しくなりたいと思ったなら、その前に、同種の誰かと、まず接触しなければならない。そういう現実に直面した時、人間側からも悪魔側からも重宝されてしまうのがルースなんだよ」

それは。つまり。

「悩んでチョコを買いに来る女の相談に乗りがてら、恋人ごっこをする羽目になったんじゃないかな。道ならぬ恋に落ちた彼女たちのために、その相手の代わりとなって、恋人のように接している。

そうこうするうちに、チョコだかルースだか、どっちが目的なのかわからないような女性客が、ローランド洋菓子店に集まるようになってしまった」

それは、明らかにあの清潔感漂う、日光の光に満ちた店には似つかわしくない光景だ。メイは、初めてこの町にやってきたときのことを思い出す。

「異変に気付いた親父は、店を持たせると言う名目で、ルースを叩き出した」

それは、あの実直さの見本のようなローランドさんなら、やりかねない、とメイは思う。

「ちょうどルースは20歳になったところだったし」

「そう…」

マーリンは、考え込むように黙り込んだけれど、メイは二人の説明を理解するだけで精いっぱいだった。

「ところで、ルースは今何歳なの?メイは40歳だって言うんだけど」

気を取り直したかのように、マーリンがそう言うと、ぶっ、とソールが噴き出した。

「26歳だよ。だらしない生活してるから、老けて見えるのかな?」

ソールが笑いながらメイの方を見るから、メイはようやく目を瞬かせて、落ち着きを取り戻す。

「うん。髪が白くてぼさぼさだもん。アル中だし、どこにでも転がって寝てるし、だらだらしてるし、てっきりおじさんだと思ってた」

今度こそソールが爆笑するから、メイはきょとんとした。

「あれはあれで、同情の余地もあるんだ。15歳のときに、母親のルイーザが突然悪魔の国に帰っちゃったし。母親の方が気が合うみたいだったから。

そう言えば、髪の色も母親譲りじゃないかな。ちゃんと手入れすれば髪質はいいはずだよ。

ルイーザが帰国した翌年には俺の母親が後妻に来るし。もちろん、俺を引き連れてね」

家族の引き算だけじゃなくて、足し算もあるなんて、知らなかった。メイはそれだけは理解した。

「そっか。家族って、増えることもあるんだぁ」

メイにとって、家族は減り続けるものだったから、ルースの家庭環境の複雑さよりもそちらのほうが驚きだった。

ただ、マーリンだけが、メイの代わりに胸を痛めた。
仲睦まじかったメイの一家は、メイが10歳のときに父親が事故死、18歳のときに母親が病死したのだ。言葉に「家族は減るもの」だとの認識を滲ませたメイに、心が痛まないはずはない。


「家族は、自分で作れるよ」

ソールは、そう言って優しく笑った。

メイは、その言葉が彼の経験に基づくものなのだろうと胸を打たれた。きっと、ローランド洋菓子店での生活は、ソールにとっては温かなものなのだろう。

実直な父親、だらしない兄とも、上手く付き合えているに違いない。そして、それまでおそらく、母と二人きりだったときよりも、ソールは幸せなのだ。

「素敵」

メイは、そう呟いて、無意識のうちに微笑んだ。

“家族は自分で作れるもの”

その言葉は、彼女の胸を温かくした。


「…ねえ、それって、将来メイと結婚したいとか、そういう気持ちも含んでるんでしょう?」
ごほっ。

マーリンが無遠慮に、ソールの顔を覗き込むから、彼は息が詰まった。

「なななっ、なに言ってんのよ!?マーリンってば、もっ、もも妄想激しいんだから!!ど、どうして、あ、あたあたしと結婚な、なんか」

「よく、わかったね」

メイの方が激しく動揺したため、ソールは却って冷静になり、むしろ肯定を示してメイの反応を見たくなった。

「はっ!?」

さっき「素敵」と呟いた時の、メイの柔らかい笑顔は、まるで新しい家族を得たかのように幸せそうで、ソールはまたドキリドキリと胸を高鳴らせている。

「その可能性も、ゼロじゃないよね?」

ソールがそう言って、まっすぐにメイの方を見つめたから、メイの顔も頭もかっかと熱くなり、当然のことながら、思考回路はショートした。

「ひ、ひゃぁぁぁ……!!」

奇声を発しながら、まだ店の営業時間にもかかわらず、メイはどたばたと自室に逃げ込んでしまったのだった。